第5話 見えない距離
残された空気は、まだわずかに張りつめており、さっきまでそこにあった気配が完全には消えきらずに、踏み荒らされた草や浅く残る足跡となって、その痕跡をはっきりと地面に刻んでいた。
ルティは、その場に立ったまま、すぐには動かず、しばらくのあいだ何もせずにその空気の中にとどまっている。
「……」
胸の奥が、ほんの少しだけざわついている。
怖いという感覚とは、どこか違う。
知らなかったものが、急に自分に関わってくるものへと変わった、その変化だけが、静かに残っている。
「……」
ゆっくりと視線を上げる。
外の方へ。
さっき男たちが去っていった方向を、じっと見つめる。
そのまま少しの間、動かずに見続けてから、ようやくゆっくりと振り返る。
そこに、ガイルが立っていた。
何も言わずに、ただそこにいる。
いつの間にか現れて、いつの間にかそこにいるというよりも、まるで最初からそこに立っていたかのような、違和感のない存在の仕方だった。
「……」
ルティの表情が、ほんのわずかに緩む。
安心したような、ほんの一瞬だけの変化。
だが、その表情はすぐに元に戻り、再び静かな顔になる。
「……」
考える。
言葉にならないまま。
ガイルは、ルティを見ない。
視線は外へ向けたままで、さっき男たちが消えていった方角を、じっと見据えている。
「……来る」
低く、短く。
それだけを言う。
「……?」
ルティは首をかしげる。
「……また?」
「……ああ」
返事は簡単で、迷いも含みもない。
「……さっきの、ひと?」
「さっきのも来る」
一拍置いてから、続ける。
「それ以外も来る」
「……」
ルティは、その言葉をゆっくりと受け取る。
すべてを理解できているわけではない。
それでも、意味の重さだけは伝わる。
「……いっぱい?」
「……多い」
短い返事。
それで十分だった。
「……」
少しだけ沈黙が落ちる。
風が、草を揺らす。
さっきと同じ場所のはずなのに、もう同じには見えない。
「……」
ルティは、小さく息を吸い込む。
それから、ガイルの方を見る。
「……かえる?」
問いかけは短い。
森の方を、ほんの少しだけ見る。
「……」
ガイルは、すぐには答えない。
代わりに、わずかに顔を傾ける。
「……おまえは、どうしたい」
静かな声だった。
押しつけるでもなく、誘導するでもなく、ただそのまま返すだけの問い。
「……」
ルティは、言葉を探す。
森を見る。
外を見る。
もう一度、森を見る。
「……」
あたたかい場所。
知っている場所。
守られている場所。
それから、外を見る。
知らない場所。
さっきの人たち。
あの言葉。
「……」
胸の奥のざわつきが、少しだけ強くなる。
さっきよりも、はっきりとした形で。
「……いく」
小さく、しかしはっきりと。
「……」
ガイルは、何も言わない。
ただ、ほんの一瞬だけルティを見る。
それで十分だった。
「……そうか」
それだけを言う。
賛成も、反対もない。
「……」
ルティは、わずかにうなずき、それから前を向く。
外の方へ。
「……」
一歩、踏み出す。
そのまま止まらない。
もう迷わない。
「……」
その背中を、ガイルは見ている。
追いかけることもなく、呼び止めることもない。
ただ、見ている。
「……」
ルティは、そのまま歩いていく。
さっきの場所を越え、さらにその先へ。
小さな背中。
それでも、その足取りは止まらない。
「……」
やがて、その姿が少しずつ遠ざかっていく。
距離が開き、完全にひとりになったように見える。
そのとき。
ガイルが、ゆっくりと息を吐いた。
「……」
そして、静かに動き出す。
音はほとんどない。
足跡も、ほとんど残らない。
木々の影に溶けるように。
ルティとは違う方向へ。
「……」
直接は追わない。
少し外側へ。
少し離れた位置へ。
見えない場所へ。
「……」
それでも、視線だけは離さない。
気配だけは、途切れさせない。
距離を保ったまま、繋ぎ続ける。
「……」
ルティは、それに気づかない。
自分がひとりで歩いていると思っている。
それでいい。
それがいい。
「……」
ガイルは止まらない。
同じ速さで、違う道を進む。
重ならない距離で。
離れすぎない距離で。
「……」
その在り方は、言葉にしなくても決まっていた。
守る。
だが、縛らない。
近づかない。
それでも、離れない。
「……」
ルティは、歩いていく。
外の世界の中を。
知らないものの方へ。
「……」
その少し外側を、見えない位置から。
ガイルもまた、進んでいた。
同じ方向へ。
ただし、違う距離で。




