第4話 連れて行く場所
「……いや」
ルティは、小さくそう言ってから、ゆっくりと首を横に振った。
声はかすかで、決して強いものではなかったが、それでも迷いはなく、その一言だけで意思ははっきりと伝わる。
「……そうか」
それを受けて、男の表情からはわずかに残っていた柔らかさが消え、代わりに無機質な判断だけが残る。
「なら、強制だ」
短く言い切ると同時に、ためらいなく腕を伸ばし、そのままルティの手を掴もうとする。
その瞬間だった。
ひゅ、と風が鳴る。
ただの風ではないと、誰もが一瞬で分かるほどに、空気の質がわずかに変わり、そこだけ別の層が重なったような感覚が走る。
「……っ」
男の手が、触れる直前で止まる。
まるで見えない何かに弾かれたように、ほんのわずかに軌道がずれる。
「……なんだ?」
眉を寄せ、手元を見つめる。
もう一人もすぐに反応し、周囲へと視線を巡らせる。
「今の、何かあったか」
「いや……だが」
言葉が途切れる。
確かに何かがあったはずなのに、それを捉えきれない。
その曖昧さが、かえって不気味だった。
その隙に、ルティは一歩だけ後ろへ下がる。
逃げるわけではない。
ただ、わずかに距離を取る。
それだけの動き。
「……おまえ」
男の視線が、はっきりと変わる。
さっきまでの軽い調子は消え、対象を見極めるための目になる。
「やっぱり普通じゃないな」
低くつぶやきながら、一度だけ森の奥へ視線を向け、それから再びルティへと戻す。
「……“候補”か」
小さな言葉だったが、その響きは軽くない。
ルティには意味は分からない。
それでも。
「……」
なんとなく、嫌だと思った。
理由はない。
ただ、体の奥のどこかが、ほんのわずかに拒んでいる。
「……こない」
ぽつりと、もう一度言う。
「……帰る」
「帰る場所があるのか?」
男はすぐに言葉を返す。
試すような、揺さぶるような声音。
「……」
ルティは少しだけ考え、それから迷いなくうなずく。
「……ある」
その答えは短く、しかし揺れがなかった。
男はその様子を見て、ほんのわずかに目を細める。
「……森か」
「……うん」
やり取りはそれだけだった。
だが、その短さの中で、互いの立場ははっきりと分かれている。
そのとき、遠くから別の足音が近づいてきていた。
複数。
揃った動き。
さっきの3人とは明らかに違う、統率された気配。
「……ちっ」
一人が小さく舌打ちする。
「早いな」
「どうする」
「……合流するしかない」
短く判断が下される。
それから、もう一度だけルティへ視線が向く。
「運が悪いな」
そう言いながら、一歩踏み出す。
「もう選べない」
その言葉には、さっきよりもはっきりとした拘束の響きがあった。
「……」
ルティは動かない。
ただ、相手を見ている。
その目は、不思議と揺れていなかった。
「……いや」
もう一度、首を振る。
さっきよりも、ほんの少しだけ強く。
その一瞬で、空気が変わる。
風が強くなり、草がざわりと揺れ、光がわずかに歪む。
「……っ」
男たちが同時に反応する。
「なんだ今の……」
そのときだった。
森の奥から、別の気配が滑り込んできた。
音はほとんどない。
それでも、確実にそこにいると分かる。
「……遅い」
低い声が落ちる。
男たちが一斉に振り向く。
そこに立っていたのは、ガイルだった。
距離を測らせない位置に、いつの間にか立っている。
「……」
ルティの表情が、ほんのわずかに動く。
見覚えのある顔。
「……ガイル」
小さく名前を呼ぶ。
確認するように。
ガイルは、ちらりと視線を向ける。
ほんの一瞬だけ。
それで十分だった。
無事であることを確かめる、それだけの視線。
それ以上の言葉はない。
「……おまえ」
男の一人が低く言う。
「森の……」
「用件は終わった」
ガイルが遮る。
感情のない声で。
「それ、置いて帰れ」
短く、はっきりと。
「……できると思うか?」
男の目が細くなる。
すでに構えに入っている。
「そいつは、ただの子どもじゃない」
「……知ってる」
ガイルは淡々と答える。
「だからだ」
一歩、前に出る。
ほんのわずかな動き。
それだけで、空気が変わる。
「ここから先は、通さない」
その言葉は、戦いの宣言だった。
遠くの足音がさらに近づいてくる。
時間はない。
男たちは一瞬だけ視線を交わし、そのまま即座に判断を下す。
「……引くぞ」
短く決める。
「だが——」
ルティを見る。
その目に、軽さはもう残っていない。
「覚えておけ」
低く言う。
「おまえは、外に出た時点で対象だ」
その言葉は、静かに残った。
3人はすぐに後退し、近づいてくる気配の方へと合流するように、森の外へ消えていく。
やがて静寂が戻る。
風だけが、遅れて通り過ぎる。
「……」
ルティはその場に立ったまま、さっきの言葉をぼんやりと繰り返す。
意味は分からない。
それでも。
「……いやだ」
小さくつぶやく。
ガイルは何も言わない。
ただ外の方を見たまま、わずかに息を吐く。
「……もう始まっている」
低く、誰にともなく言う。
ルティはその横顔を見て、それからもう一度外を見る。
さっきまでと同じはずの景色が、少しだけ違って見えた。
知らなかっただけのものが、今は確かに関わってくるものに変わっていた。




