第71話 背を向けたあとで
森の外縁。
精霊領域の“すぐ外側”にあたる、見えない壁のような境界の縁。
「……」
男は、その境界の手前に静かに立っている。
振り返ることはない。
さっきまでいた場所は、もう視界には映らない。
それでも。
“そこに在る”という確かな感覚だけは、はっきりと残っている。
「……」
風が、音もなく静かに流れていく。
さっきと同じ、どこか意思を持つような導きの風。
「……」
男は小さく、独り言のようにつぶやく。
「……便利なもんだな、ほんと」
皮肉にも似た響き。
だが、その声音にはわずかな受容が混じっている。
嫌悪ではない。
むしろ――理解に近いもの。
ポケットから、例の金属片を取り出す。
古びて、角の削れた遺構の欠片。
「……」
指先で、ゆっくりとなぞる。
刻まれた紋様の溝に、わずかな温度が残っているような気がする。
記憶が、静かに浮かび上がる。
暗い遺構の奥。
同じように脈打つ光。
そして。
あの“声”。
『境界の核を発見――』
『回収を優先――』
「……」
男の指が、ぴたりと止まる。
それ以上を、思い出さないようにするみたいに。
「……」
深く息を吐き出す。
肺の奥に残っていたものを、無理やり押し出すように。
「……結局、同じ流れか」
低く、誰に向けるでもなく落とす言葉。
視線を、ゆっくりと持ち上げる。
森の奥。
見えないその先。
ザーラと、ルティがいる場所。
「……」
ほんの一瞬だけ。
その表情が、わずかに柔らぐ。
ミーナの顔が、脳裏に浮かぶ。
あの揺れる声と、迷いを含んだ視線。
「……」
それを振り払うように、目を細める。
「……あれは、危険だ」
はっきりと、自分に言い聞かせるように。
「……」
だが、その先の言葉が続かない。
“だから排除する”
その一線が、どうしても口から出てこない。
「……」
代わりに、思い出すのは。
『けんか、だめ……』
あの小さな声と、まっすぐすぎる眼差し。
「……」
目を閉じる。
ほんの短い間だけ。
そして、ゆっくりと開く。
もう迷いは、表に出ない。
「……」
男は、静かに歩き出す。
森の“外側”へと向かって。
その足取りには、ためらいがない。
向かう先は、村ではない。
もっと外。
さらに遠く。
「……」
小さく、低くつぶやく。
「……先に、潰しておくか」
その言葉は冷たい。
だが、その意味はまったく別の方向を向いている。
ルティではない。
ルティを狙う“側”だ。
「……」
歩みは変わらない。
むしろ、わずかに速くなる。
やがて。
木々の隙間から、ぼんやりとした光が見えてくる。
焚き火の明かり。
人の気配。
複数。
「……」
男は足を止め、静かに耳を澄ます。
「……確かに、この辺りで反応が出たはずだ」
「……逃がすな、今回は確実に仕留める」
低く抑えた声。
追手の一部、本隊とは別に動く先行班。
「……」
男の目が、すっと冷えていく。
ゆっくりと弓を手に取る。
音は立てない……呼吸すら、消す。
完全に、“狩る側”の動き。
「……」
矢を、静かにつがえる。
一瞬の間。
そこに迷いは――ない。
放つ。
音は、ほとんどない。
「……っ」
ひとりが、声もなく崩れ落ちる。
「……!?」
残りが異変に気づく。
「……どこだ!?」
遅い。
二本目。
もうひとり。
「……敵襲――!」
叫びかけた声が、途中で途切れる。
三本目。
やがて。
音が消える。
焚き火だけが、ぱちりと揺れて残る。
「……」
男は、ゆっくりと歩み寄る。
倒れた者たちを、一人ずつ確認する。
淡々と。
そこに感情はない。
ただ。
ひとりの腕に刻まれた印に、視線を止める。
組織の紋章。
「……」
目を細める。
「……動きが、早すぎるな」
つまり。
すでに始まっている。
本格的な“回収作戦”が。
「……」
小さく息を吐く。
そして、空を見上げる。
森の奥。
見えない場所。
「……」
ぽつりと。
「……借りがある」
誰にともなく。
「……返してやる」
その言葉は静かで、だが、確かに重い。
男は焚き火に手をかけ、火を消す。
痕跡を残さないように。
そして。
闇の中へと、音もなく溶けていく。
今度は――
“狩る側”ではなく。
“守る側”として。




