第70話 境界で会う
月明かりが、静かに地面を照らし、その淡い光の上にひとつの影がゆっくりと伸びていく。
その影の主は、迷いのない足取りで、まっすぐこちらへと歩いてくる。
ためらいも、警戒も感じさせない。
ただ一直線に、境界の中心へ向かって。
「……」
リオンが、ほんの半歩だけ前へ出る。
ごく自然な動き。
けれどその位置は、これ以上の侵入を許さないという、明確な線引きでもあった。
「……」
ミーナの呼吸が、知らず知らずのうちに浅くなる。
見間違えるはずがない。
「あの人……」
かすれた声が、喉からこぼれる。
男は、その声が届いたかのように、一定の距離を保ったまま足を止める。
境界の光が、彼の足元でわずかに揺らめく。
けれど、その身体は弾かれることなく、拒絶されてもいない。
「……」
リオンの目が、わずかに細められる。
「……どうやって入った」
低く落とされた声は、問いというよりも確認に近い。
「……」
男は、すぐには答えず、周囲へ一度だけ視線を巡らせる。
揺れる精霊の光。
歪みを帯びた空気。
そして。
ザーラと、その腕の中のルティ。
最後に。
ミーナへと視線が向く。
「……」
ほんの一瞬だけ、その表情がわずかに緩む。
だが、それもすぐに消え、元の静かな顔へと戻る。
「……案内された」
短く、それだけを告げる。
「……」
リオンの眉が、わずかに動く。
「……誰に」
「……」
男は、ゆっくりと視線を空へ向ける。
「……風だ」
沈黙が落ちる。
冗談のようでいて、どこか現実味がある。
少なくとも、嘘を言っている響きではない。
「……」
ミーナが、一歩だけ前へ出る。
迷いは残っている。
それでも、止まることができない。
「……どうして、来たの」
声が、わずかに震える。
男は、しばらく何も言わず、ただ静かに見つめ返す。
ミーナを、まっすぐに。
「……」
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……迎えに来た」
「……!」
ミーナの瞳が、大きく揺れる。
「……帰るぞ」
その声は静かで、押しつけるような強さはない。
けれど、確かな意思だけは込められている。
「……」
ミーナは、言葉を失う。
“帰る”という言葉が、今の自分にはあまりにも遠く感じられる。
「……」
ザーラが、無意識にルティを抱く腕へ力を込める。
その腕の中で、ルティが小さく身じろぎする。
男の視線が、そこへ向けられる。
「……」
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
その瞳に、“理解”の色が浮かぶ。
そして、低く言い放つ。
「……それが、“鍵”か」
空気が、凍りつく。
「……!」
リオンの気配が、一段と鋭くなる。
「……その言葉を、どこで知った」
男は、視線を逸らさない。
「……昔の仕事だ」
短い答え。
だが、それだけで十分すぎる意味を持っていた。
「……」
リオンが、わずかに立ち位置を変える。
完全に遮る形で、前に出る。
「……それ以上、近づくな」
空気が、ぴんと張りつめる。
「……」
男は、その場から動かない。
踏み込むことも、引くこともなく、ただ静止している。
しばらくの沈黙。
やがて。
男が静かに口を開く。
「……敵になるつもりはない」
「……」
リオンの目が、さらに細くなる。
「……だが」
その一言で、場の空気が一段と重く沈む。
「……あれを、放置する気もない」
「……!」
ミーナが息を呑む。
ザーラの腕が、わずかに強くなる。
「……」
リオンが、低く言い返す。
「……なら、ここで終わりだ」
一歩、踏み出す。
空気が軋み、衝突の気配が濃くなる。
その瞬間。
「……やめて」
小さく、けれどはっきりとした声。
ルティ。
「……」
その一言で、全員の動きが止まる。
ルティは、ザーラの腕の中でゆっくりと目を開けている。
男を、まっすぐに見つめる。
「……けんか、だめ……」
静かで、弱い声。
けれど、不思議なほど強く、その場に落ちていく。
「……」
男が、ゆっくりと目を細める。
初めて、明確にルティを“ひとりの存在”として見据える。
長い沈黙。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか」
それだけを残し、剣も言葉もそれ以上は向けない。
「……」
リオンもまた、動かないままその様子を見ている。
完全な解決ではない。
だが、“今は戦わない”という選択だけが、そこに成立する。
「……」
ミーナが、ぽつりと呟く。
「……どっちなの……味方なの……それとも敵なの……」
男は、その問いに答えない。
ただ、森の奥と、ザーラたちを順に見やる。
「……」
そして、静かに言う。
「……決めるのは、これからだ」
ゆっくりと振り返る。
「……お前もな」
ミーナへ向けて、それだけを告げると。
男は、再び闇の中へと歩み去っていく。
完全に去ったわけではない。
だが、確かな距離だけは置かれた。
残されたのは、張りつめた静寂。
「……」
ザーラが、ルティを強く抱きしめる。
「……」
リオンが、一瞬だけ目を閉じる。
そして、再び開く。
「……面倒なやつが増えたな」
低く呟かれたその声には。
わずかに――
どこか、嫌いではないという響きが混じっていた。




