第7話 はじめてのしっぱい
その日から。
ルティは、何度も、同じことを繰り返すようになった。
食べ終わった器を、両手で大事そうに持って——
ことり、と。
決められた場所へ、そっと置く。
音を立てないように、慎重に。
間違えないように、何度も思い出しながら。
「……」
それから、ゆっくりと顔を上げて。
ザーラの方を見る。
「……えらい」
短い、その一言。
それだけなのに。
胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
言葉の意味を、全部理解しているわけじゃない。
でも——
その声のやわらかさと、そこに含まれている肯定だけは、はっきりとわかる。
「……」
だから。
もう一度、やりたくなる。
もっと、やりたくなる。
次の日も。
その、また次の日も。
「……」
ことり。
「……えらい」
「……!」
少しずつ。
足取りが、しっかりしていく。
手の震えも、いつの間にか少なくなっていく。
「……」
できる。
ちゃんと、自分でできている。
その感覚が、体の中に残っていく。
——だから。
もっと、やりたくなった。
もっと、ちゃんとしたくなった。
その朝。
ザーラが、ほんの少しだけ目を離した、その隙に。
「……」
ルティは、静かに立ち上がる。
スプーンを握ったまま。
いつものように。
「……」
テーブルを見る。
置かれた器を見る。
それから——
ふと、床へと視線が落ちる。
「……」
少しだけ、汚れている。
ほんの少しの、しみ。
気づかなければ、そのままでもいいようなもの。
でも。
「……」
ルティは、じっとそれを見る。
「……」
考える。
頭の中で、ゆっくりと何かがつながる。
「……」
——きれいに、する。
そう思った。
誰にも言われていないのに。
そうした方がいいと、自然に思えた。
布を見つける。
小さな手で、引っ張る。
少し重い。
でも、離さない。
「……」
しゃがむ。
床に手をつく。
「……」
ごし、ごし。
ゆっくりと、こする。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
きれいになっていく、気がする。
「……」
うれしい。
「……っ」
もっと、きれいにしたい。
ごし、ごし。
ごし、ごし。
だんだんと、力が強くなる。
そのとき。
——つるっ
「……あ」
体が、ぐらりと揺れる。
手が滑る。
持っていた布が、弾かれる。
「……っ!」
足がもつれて。
バランスが崩れる。
そのまま——
どんっ
机にぶつかる。
器が、揺れる。
「……っ!」
がちゃん。
床に落ちる音。
割れる音。
鋭く、耳に刺さる音。
「……!」
その瞬間。
体が、完全に固まる。
音。
その音が。
一瞬で——
遠くにあるはずの記憶を、無理やり引きずり出す。
「……っ」
息が、止まる。
胸が、強く締めつけられる。
こわい。
こわい、こわい、こわい。
理由なんて、わからないのに。
ただ、その感覚だけが押し寄せる。
「……っ」
逃げなきゃ。
でも——
体が動かない。
足が、言うことをきかない。
「……っ」
肩が、小刻みに震える。
手の力が抜けて。
スプーンが、指から離れる。
ころん、と。
乾いた音を立てて、床を転がる。
「……」
それを見た瞬間。
胸の奥が、ぎゅっと潰れるみたいに痛くなる。
——だめにした。
——なくした。
——怒られる。
「……っ」
息が浅くなる。
視界がにじむ。
何も見えなくなりそうになる。
「……なにやってるの」
ザーラの声。
いつもより、少し低い。
「……っ!」
びくっと体が跳ねる。
でも、振り向けない。
怖くて。
「……」
足音が、ゆっくりと近づいてくる。
かさ。
かさ。
割れた器。
濡れた布。
震えている、小さな背中。
「……」
ザーラは、一瞬だけ黙る。
その光景を見て。
すべてを理解して。
「……」
小さく、息をつく。
「……ルティ」
静かに、名前を呼ぶ。
「……っ」
びくりと反応する。
「……こっち見なさい」
強くはない。
でも、逃げられない声。
「……」
ゆっくり。
ほんとうに、ゆっくりと。
振り向く。
涙でぐちゃぐちゃになった顔。
「……」
ザーラの視線が、まっすぐに向けられる。
「……どうしたの」
短く。
責める色のない声。
「……っ」
言えない。
でも。
言わなきゃいけない気がする。
「……ぁ」
口が震える。
「……て……」
「……うん」
「……て……つ……」
「……手伝い?」
こくん。
「……っ」
涙が、ぽろぽろと落ちる。
「……やりすぎたのね」
ぽつりと。
「……っ」
何度も、何度も、うなずく。
「……」
ザーラは、ゆっくりとしゃがむ。
目線を合わせる。
空色の瞳が、逃がさずに見つめる。
「……聞きなさい」
静かな声。
「やるのは、いい」
「……」
「でも」
ほんの少しの間。
そのあとで。
「勝手にやるのは、だめ」
「……っ」
その言葉が、まっすぐに届く。
「……危ないから」
床を見る。
割れた器を見る。
「ケガする」
「……っ」
自分の手を見る。
まだ震えている。
小さく。
頼りなく。
「……」
ザーラは、その手を取る。
やさしく。
包み込むように。
「……ほら」
指を開かせる。
「……っ」
スプーンが、ない。
「……」
目が揺れる。
不安が、また戻りそうになる。
「……落としたのね」
床を見る。
ころん、と転がっている。
「……」
ザーラが、それを拾う。
水で軽く流して。
布で拭いて。
「……はい」
手の中に、戻す。
「……!」
ルティの顔が、はっと上がる。
「……」
ぎゅっと、握る。
今度は、さっきよりも強く。
確かめるみたいに。
「……いい?」
ザーラが言う。
「もう一回、やる?」
「……!」
涙のまま、こくんとうなずく。
「……じゃあ」
ザーラが、布を拾う。
「今度は、一緒に」
「……」
そっと、手を重ねる。
あたたかい手。
さっきと同じ。
でも、少しだけ違う。
「……ゆっくり」
ごし。
ごし。
「……」
ルティも、合わせる。
ごし。
ごし。
さっきより、ゆっくり。
ひとつひとつ、確かめるように。
「……いい」
ザーラが、静かに言う。
「それでいい」
「……っ」
涙が、また落ちる。
でも。
さっきの涙とは、違う。
こわくない。
逃げたくならない。
「……えらい」
その一言で。
全部が、ほどける。
胸の奥にあった固まりが、ゆっくりと溶けていく。
「……っ」
声にならないまま、何度もうなずく。
ミーナは、少し離れたところで見ていた。
「……」
何も言わない。
ただ、目だけがやわらかい。
「……いい怒り方するじゃない」
小さく、つぶやく。
「うるさい」
ザーラは短く返す。
でも。
その声も、ほんの少しだけやさしくなっていた。
床は、きれいになった。
割れた器は、片付けられた。
何事もなかったみたいに。
でも。
確かに、何かが変わっていた。
「……」
ルティは、スプーンを握っている。
さっきよりも、ずっとしっかりと。
それはもう。
ただの“安心”じゃない。
ただの“成功”でもない。
失敗しても。
壊してしまっても。
怖くなっても。
それでも——
ここにいていい。
そのことを。
ルティは、はじめて知った。




