第68話 気づいている男 【挿絵 ミーナの旦那】
村の夜。
静けさが、深く降りている。
何も起きていないように見える。
平穏そのものの景色。
でも。
「……」
ひとりだけ、まだ眠っていない男がいる。
「……」
家の外。
木にもたれるように立ち、空を見上げている。
ミーナの旦那。
名前は――まだ呼ばれない。
ただ。
その目だけが、はっきりと覚めている。
「……」
風が、かすかに流れる。
森の方から。
遠く。
ほんのわずかに“違う匂い”を運んでくる。
「……」
男の目が、わずかに細くなる。
「……動いたか」
小さく、独りごちる。
誰もいない夜の中で。
足元には、いくつかの道具が置かれている。
弓。
刃物。
そして。
見慣れない、小さな金属片。
古びている。
だが、丁寧に手入れされていることがわかる。
「……」
男が、それを拾い上げる。
指先で、ゆっくりとなぞる。
刻まれた紋様。
あの遺構のものと、よく似ている。
「……まだ、残っていたか」
低く。
どこか懐かしむような響きで。
視線は、遠くへ向く。
森の奥。
本来なら、見えるはずのない場所。
それでも“わかる”。
「……」
ゆっくりと、体を起こす。
家の方へ、ちらりと視線を向ける。
灯りは消えている。
静まり返っている。
「……」
何も言わない。
だが、すべて理解している。
ミーナが、ここにいないことも。
そして。
どこへ向かったのかも。
「……」
小さく、息を吐く。
「……あそこか」
確信に近い呟き。
そのとき。
背後で、足音が止まる。
「…ガイル…やっぱり、起きてたか」
振り向かない。
誰の声か、わかっている。
同じ村の男。
昼間は何気なく顔を合わせる相手。
だが。
今の声は、どこか違う。
「……」
ガイルは、ゆっくりと答える。
「……何の用だ」
「……とぼけるなよ」
軽く笑うような声。
だが。
その目は、まったく笑っていない。
「……森の奥で、動きがあった」
「……」
沈黙が落ちる。
「……調査隊も出ている」
「……」
それでも、男は動かない。
「……あんた、知ってるんだろ?」
少しだけ間が空く。
「……昔、あっち側にいたんだろ」
空気が、はっきりと変わる。
「……」
ガイルが、ようやく振り向く。
その目。
昼間とは、まるで別人のように。
冷静で、鋭く研ぎ澄まされている。
「……だったら、何だ」
低い声。
ほとんど感情を乗せない響き。
相手の男が、一瞬だけひるむ。
だが。
すぐに持ち直す。
「……上に報告がいく」
「……」
「……“鍵”が動いたってな」
「……」
その言葉に。
ほんのわずかだけ、空気が揺れる。
だが。
ガイルは、まったく動じない。
「……それで?」
「……それでって……」
苛立ちが、声ににじむ。
「……あんたの女房も、いないんだぞ」
一瞬。
ほんの一瞬だけ、その目が、揺れる。
だが。
すぐに、元へ戻る。
「……」
静かに、言い切る。
「……関係ない」
「……は?」
「……」
ミーナの旦那は、再び背を向ける。
「……仕事だろ」
淡々とした声音で。
「……お前らの」
冷たい言い方。
だが。
それは明確に、“線を引く”言葉だった。
「……」
男が、顔をしかめる。
「……あんた……」
そのとき。
ガイルが、足を止める。
振り向かないまま。
低く言う。
「……深入りするな」
抑えた声で。
「……死ぬぞ」
「……」
その一言が、重く沈む。
男は、それ以上何も言えなくなる。
「……」
足音が、ゆっくりと遠ざかっていく。
向かう先は、森。
ひとりで。
迷いなく歩いていく。
月明かりの中で。
その背中はもう、ただの狩人ではない。
「……」
小さく、つぶやく。
「……選ぶしかないか」
誰にも届かない声で。
「……どっちにつくか」
歩みは、止まらない。
森へ。
“境界”の方へ。




