第60話 ひらくもの
「……力づくで確保する」と、抑えた声で告げられたその瞬間に、空気の張りつめ方が一段と鋭く変わり、次の瞬間には――迷いのない踏み込みが、一斉にこちらへ向けて放たれる。
追手たちの動きは速く、しかも無駄が一切なく、長く訓練された者特有の統制された軌道を描いて迫ってくる。
「……っ!」
ミーナが思わず息を呑み、その場の緊張が一気に現実のものとして迫る。
ザーラはルティを抱きかかえたまま、反射的に一歩、さらにもう一歩と後退し、その小さな体を庇うように腕の力を強める。
その前に出るのは、ただひとり――リオンだけで、彼は静かに一歩を踏み出しながらも、場の空気そのものを押し返すような気配をまとっている。
そして、その足が止まった瞬間。
見えないはずの“何か”が、確かにそこに生じた。
「……!」
最前列にいた男が、不意に足を止めて眉をひそめる。
違和感。
説明のつかない、だが確実に存在する“歪み”。
「……?」
視線が、自然と足元へ落ちる。
床に刻まれた光の紋様が、さっきまでとは明らかに違う強さと揺らぎで脈打ち、不規則に、まるで呼吸でもしているかのように明滅している。
「……」
遺構全体が、低く、深く軋む。
――ごう、と腹の底に響くような音が広がる。
「……っ!」
その振動に、全員の体勢がわずかに崩れ、思わず踏ん張る音が重なる。
「……何だこれは……!」
動揺の声が漏れる中で。
リオンだけが、ゆっくりと顔を上げ、その目を鋭く細める。
「……来たな」
低く、確信を含んだ声。
「……?」
ザーラが息を呑む、その直後。
ルティの体が、腕の中でびくりと大きく震える。
「……!」
「……ルティ!」
ザーラが強く抱きしめるが、その感触が、どこかおかしい。
軽い。
いや、軽くなりすぎている。
「……」
ルティの体が、ふわりと浮き上がる。
ほんのわずかに、だが確実に。
「……!?」
腕の中から離れかけるその瞬間、ザーラは反射的に引き寄せる。
「……離さない!」
必死の声と同時に、腕に込める力がさらに強まる。
その瞬間。
――ぱきん、と乾いた音が響く。
何かが“割れた”。
空間そのものに、細かな亀裂が走るように。
「……!」
景色が歪む。
壁が二重に重なり、床の輪郭がずれ、視界のすべてがほんの少しずつ食い違い始める。
「……な……」
追手のひとりが言葉を失い、ただ目を見開く。
「……これは……」
その問いに答えるように、リオンが低く言う。
「……境界が、開きかけてる」
「……!」
誰かが叫ぶ。
「……撤退しろ!」
しかし、その判断は、すでに遅い。
光の中心――ルティの周囲に生じた裂け目が、ゆっくりと、しかし確実に広がり続けている。
それは黒でも白でもなく、どこにも属さない“空白”のような領域で、見ているだけで感覚が狂いそうになる。
「……」
その奥に、“何か”がある。
影ではない。
むしろ、別の“景色”。
異なる世界の断片が、一瞬だけこちらを覗き返す。
「……っ」
空気が変わる。
重さも、温度も、存在の密度そのものが違う。
そして。
“何か”が、確かにこちらを見た。
「……!!」
誰も声を出せない。
本能で理解する。
それは、見てはいけないものだと。
「……」
ルティが、小さくつぶやく。
「……いや……」
「……!」
その声で、ザーラは我に返る。
「……大丈夫!」
叫ぶように言いながら、さらに強く抱きしめる。
「……ここにいる!」
ルティは震えながらも、ザーラの服をぎゅっと掴み、その手だけは決して離そうとしない。
そのとき、裂け目がさらに大きく広がり、周囲の空気ごと引きずり込もうとする流れが強まる。
「……くそ……!」
追手の男が剣を地面に突き立て、必死に踏みとどまる。
「……踏ん張れ!」
しかし足場そのものが揺らぎ、世界の輪郭が安定しない。
「……!」
ミーナがザーラの腕を掴み、必死に引き留める。
「……このままじゃ!」
その混乱の中で、リオンが前へ出る。
裂け目のすぐ前へ。
迷いなく、手を伸ばす。
「……!」
ザーラが叫ぶ。
「……何してるの!」
リオンは振り返らず、ただ一言だけ告げる。
「……閉じる」
「……!?」
「……このままじゃ、全員巻き込まれる」
裂け目が唸りを上げ、さらに拡大していく中で、その手が光に触れた瞬間――
空間が、ぎしりと軋む。
強烈な反発が返る。
「……くっ……」
押し潰されるような圧力に、リオンの体がわずかに沈み込む。
それでも、手は離れない。
「……」
その様子を、ルティがぼんやりと見上げる。
そして、小さく。
「……だめ……」
「……?」
涙をにじませながら、さらに言葉を落とす。
「……いたい……」
「……!」
その一言で、すべてが繋がる。
リオンの動きが止まり、ザーラがはっと息を呑む。
裂け目は、ルティと“繋がっている”。
つまり――これを無理に閉じれば。
「……やめて!」
ザーラの叫びが響く。
リオンの手が、わずかに震える。
理解したからこそ、動けない。
裂け目はさらに広がり続け、誰も決断できずに立ち尽くす。
そのとき。
ルティが震えながら、ザーラを見上げる。
「……こわい……」
「……」
ザーラは、何も迷わずその体を抱きしめる。
「……大丈夫」
声は震えている。
それでも、確かに。
「……いっしょにいる」
その言葉が、静かにルティの中へと落ちていく。
そして。
光が変わる。
荒れていた輝きが、やわらかく、穏やかなものへと移ろい。
裂け目の動きが、ぴたりと止まる。
やがて。
ゆっくりと、閉じはじめる。
「……!」
誰もが息を呑む中で、それは自然に、抵抗もなく収束していく。
リオンの手が離れても、もはや影響はない。
完全に。
静かに。
裂け目は消え去る。
静寂が戻る。
誰も、すぐには動けない。
ただひとつ、はっきりしていることだけが残る。
この現象は――
“あの子”によって、動いたのだ。




