第5話 初めてのおてつだい
朝の空気は、ほんの少しだけ甘かった。
さっきまでそこにあったパイの匂いが、まだやわらかく残っていて、部屋の中に静かに漂っている。
「……」
ルティは、その中で、スプーンを握ったまま立っていた。
ぎゅっと。
小さな手で、確かめるみたいに。
離さないように。
まるで、それを手放してしまったら、何か大切なものまで消えてしまうみたいに。
「……なにしてるの」
ザーラが振り返る。
「食べ終わったなら、置きなさい」
「……」
ルティは、首を横に振った。
小さく。
でも、はっきりと。
「……だめ」
「……は?」
「……これ」
スプーンを、少しだけ持ち上げる。
「……いる」
「……」
言葉は、まだ足りない。
でも、ルティの中では、ちゃんと意味がある。
あたたかかった。
これで、食べた。
これを持っていれば、だいじょうぶ。
言葉にならないまま、その感覚だけが手の中に残っている。
「……はぁ」
ザーラが、小さく息をつく。
「……好きにしなさい」
投げるように言って、背を向ける。
「でも――」
ほんの少しだけ間を置いて。
「落とすんじゃないわよ」
「……!」
ルティの顔が、ぱっと明るくなる。
こくん、こくんと、何度も頷く。
その手は、さらにぎゅっとスプーンを握りしめた。
「……で?」
ミーナが、腕を組んでにやにやしている。
「なにそれ、かわいいじゃない」
「うるさい」
「完全にお気に入りじゃん」
「だから違うって言ってるでしょ」
「はいはい」
ミーナは、くすくすと笑う。
それから、ルティの方へ目を向けた。
「……で、ルティちゃんは何してるの?」
「……」
ルティは、少しだけ考える。
それから、とことことザーラの方へ歩き出した。
ぺた、ぺた、と。
まだ少し頼りない足取りで。
「……なに」
ザーラが、ちらりと見る。
「……」
ルティは、スプーンを握ったまま鍋の方を見る。
それから、ザーラを見る。
また、鍋を見る。
「……?」
「……」
もう一度、視線を往復させて。
小さく。
「……て」
「……は?」
「……て、つ……」
うまく言えない。
もどかしそうに、眉が少し寄る。
「……」
ミーナが、ぽんと手を打った。
「あ、もしかして」
にやっと笑って。
「お手伝いしたいの?」
「……!」
ルティの顔が、ぱっと明るくなる。
こくん、こくん、と大きく頷く。
その手の中で、スプーンが小さく揺れた。
「……」
ザーラが、じっと見る。
小さな体。
まだ安定しない足。
そして、大事そうに握られたスプーン。
「……無理よ」
即答だった。
「危ない」
「えー! いいじゃない、ちょっとくらい!」
「だめ」
「ちょっと混ぜるくらいなら――」
「だめ」
ぴしゃりと遮る。
「……」
ルティの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
そのまま、動かない。
スプーンを握ったまま。
離さないまま。
「……」
沈黙が落ちる。
「……はぁ」
ザーラが、少し深く息をついた。
「……ほんの少しだけよ」
「やった!」
ミーナが喜ぶ。
「あなたじゃない」
「えっ」
ザーラは無視した。
「……こっち来なさい」
ルティに向かって、手を伸ばす。
「……」
ルティは、そっと近づく。
少し緊張したまま。
でも、逃げない。
「……ここ持って」
スプーンの上から、ザーラの手が重なる。
大きな手。
しっかりしていて、あたたかい。
「……」
ルティは、その手をじっと見る。
触れている。
一緒に持っている。
「……いい?」
「……」
こくん、と小さくうなずく。
「……ゆっくり」
鍋の中を、少しだけ動かす。
くる、と。
ほんのわずかな円。
「……」
もう一度。
くる。
「……っ」
動いた。
自分で、動かした。
その感覚が、ちゃんと手に残る。
「……すごいじゃない!」
ミーナがすぐに声を上げた。
「ちゃんとできてる!」
「……!」
ルティの目が、大きく開かれる。
「……上手よ」
ザーラが、ぽつりと続ける。
「……!」
その瞬間。
時間が、止まったみたいに感じた。
「……」
顔が、じわっとゆるむ。
胸の奥が、あたたかくなる。
うれしい。
でも、その気持ちをどうしていいのか、まだわからない。
「……っ」
もう一度、やろうとする。
少しだけ力が入りすぎる。
ぐるんっ。
「……あ」
鍋が大きく揺れる。
中身が、少し跳ねた。
「……!」
びくっとして、手を離しかける。
「……大丈夫」
すぐに、ザーラの手が押さえた。
「落ち着いて」
静かな声。
「……ゆっくりでいい」
「……」
ルティの呼吸が、少しずつ整っていく。
「……ほら」
もう一度。
くる。
ゆっくりと。
今度は、きれいに動いた。
「……」
ルティは、それをじっと見て。
それから、小さくうなずいた。
「……えらいえらい」
ミーナが、ぱちぱちと拍手する。
「初めてでこれなら上出来よ!」
「……大げさ」
「いいじゃない、褒めるの大事なの!」
「……」
ザーラは何も言わない。
でも。
「……もういいわ」
そっと、手を離す。
「次は見てなさい」
「……!」
こくん。
さっきよりも、しっかりとしたうなずき。
ルティは、手の中のスプーンを見つめる。
さっきと同じもののはずなのに。
少しだけ、違って感じる。
あたたかい。
うれしい。
――できた。
その感覚が、まだ手の中に残っている。
「……」
ぎゅっと、握る。
今度は、ただの“食べるための道具”じゃない。
それは、
はじめて誰かと一緒に何かができた証であり、
はじめてここにいていいと思えた、
小さくて、確かな、しるしだった。




