第45話 追いつく影
森の奥。
「……っ、は……」
荒くこぼれる呼吸が、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻しはじめる頃になって、ザーラとルティは同時に限界を迎えたように足を止め、その場で動けなくなる。
「……」
これ以上は無理に走れば足がもつれると、経験的にわかる限界で、無理やり進むよりも一度止まるべきだと、ザーラは即座に判断する。
「……」
視線を巡らせる。
森は静かで、先ほどまで背後にあったはずの追跡の気配は、今この瞬間に限っては、まるで嘘のように消えている。
「……」
けれど。
その静けさが安全を意味しないことを、ザーラはもう理解している。
「……」
ルティの呼吸はまだ荒く、胸が小さく上下していて、それでも必死にそれを整えようとしているのがわかる。
「……だいじょうぶ……」
自分に言い聞かせるように、小さく、途切れがちな声でそうつぶやく。
「……」
ザーラはすぐにその前にしゃがみ込み、目線を合わせる高さまで落ちる。
「……ここで少しだけ休む」
周囲への警戒を解かないまま、それでも声だけはやわらげて言う。
「……うん」
ルティは素直にうなずいて、そのまま力が抜けたように隣へと腰を下ろす。
ぴったりと。
まるで離れたら消えてしまうかのように、ザーラの腕に触れる距離で。
「……」
しばらくのあいだ、二人の間には言葉はなく、ただ風が葉を揺らす音だけが、ゆっくりと流れていく。
「……」
ザーラはふと視線を上げ、枝葉の隙間からわずかに見える空を見上げる。
まだ森の中で、出口の気配は遠い。
「……」
そのとき。
背後に、わずかな違和感が走る。
気配。
ほんの一瞬で、全身の神経が引き締まる。
「……!」
ザーラは反射的に立ち上がり、ルティを背にかばうように位置をずらして、そのまま振り返る。
影。
木々のあいだ。
揺れるように見えていたそれが、やがてひとつの形を取る。
「……」
ゆっくりと、姿を現す。
「……」
リオン。
まるで散歩の帰りのように、何事もなかったかのような足取りで、こちらへ歩いてくる。
「……」
ザーラの目が、わずかに細くなる。
「……遅い」
責めるでもなく、ただ事実を置くようにぽつりと告げる。
「……」
リオンは肩をすくめる。
「……寄り道してた」
あまりにも軽い口調。
場違いなほどに。
「……」
その歩き方にも、呼吸にも、乱れはない。
だが。
「……」
ザーラの視線が、自然と下へ落ちる。
腕。
袖の端。
わずかに濡れた布。
「……」
血。
乾きかけの、それ。
「……」
ほんの一瞬だけ、空気が止まる。
リオンはそれに気づいている。
確実に。
それでも、何も言わない。
「……追っては来ない」
ただ、それだけを、短く置く。
余計な説明はない。
結果だけ。
「……」
ザーラも、何も聞かない。
聞かないと決めたように。
「……」
代わりに、小さく息を吐いてから。
「……助かった」
それだけを言う。
「……」
リオンはわずかに目を細める。
「……ああ」
短く、それだけ返す。
「……」
そのやり取りの隙間から、ルティがそっと顔をのぞかせる。
「……あ……」
リオンを見て、少しだけ躊躇う。
怖さが、まだ残っている。
でも。
「……」
一歩だけ、前に出る。
ザーラが止めるより、ほんのわずかに早く。
「……」
小さな手が伸びる。
そっと。
遠慮がちに。
リオンの服の端を、ちょん、とつまむ。
「……?」
リオンの動きが、わずかに止まる。
「……」
ルティはそのまま見上げる。
まっすぐに。
迷いなく。
「……ありがとう」
小さな声で。
けれど、はっきりと。
「……」
その瞬間、リオンの時間だけが一拍遅れる。
完全に想定外の反応。
「……」
わずかに息を吐いてから。
「……礼はいらん」
いつもの調子で返す。
だが、その声はほんの少しだけ柔らいでいる。
「……」
それでもルティは離れない。
じっと見つめたまま。
そして。
「……いたい?」
ぽつりと。
「……」
ザーラの目が、わずかに開く。
「……」
リオンは一瞬だけ言葉を失う。
それから。
「……たいしたことはない」
そう答える。
嘘ではあるが。
見栄ではない、ただの事実の選び方。
「……」
ルティは少しだけ考えてから、こくんと小さくうなずく。
そして。
ポケットを探る。
ごそごそと、ぎこちなく。
「……」
取り出したのは、小さな布。
大事にしていたのか、きれいに畳まれている。
「……これ」
差し出す。
ためらいながらも、まっすぐに。
「……」
リオンはそれを見下ろす。
古い布。
価値はない。
だが。
「……」
しばらく黙ったあと、手を伸ばす。
受け取る。
何も言わずに。
「……」
そのまま軽く巻く。
傷口の上に。
「……」
少しだけ間があってから。
「……悪くない」
ぽつりと落とす。
「……!」
ルティの表情が、ぱっとほどける。
小さく笑う。
安心したように。
「……」
ザーラは、その光景を黙って見ている。
何も言わない。
けれど。
ほんのわずかに。
張り詰めていた肩の力が、抜ける。
完全な安全ではない。
それでも。
“戦いの外に出た一瞬”が、確かにそこにあった。




