第44話 リオンのやり方
森の中。
「……走れ」
リオンの声が、低く、余計なものを一切削ぎ落とした刃のような鋭さで背中を押してくる。
その一言を合図に、三人は同時に地面を蹴り、枝をかき分けるようにして森の奥へと走り出す。
「……っ」
ルティの足が、小さくもつれ、ほんの一瞬だけ体勢が崩れる。
「……!」
その崩れを、見逃さない。
ザーラがすぐに腕を引き寄せるように支え、転びかけた体を強引に引き戻す。
「……大丈夫、まだいける」
息を切らしながらも、できるだけ落ち着いた声で言う。
「……うん……」
ルティは小さくうなずくが、その足取りは明らかに重く、さっきまでの無理がじわじわと表に出始めている。
それでも、手だけは絶対に離さない。
ぎゅっと、しがみつくように。
「……」
その遅れを、リオンがちらりと振り返った一瞬で正確に測る。
距離、速度、追跡の接近速度。
すべてを、一拍で計算する。
「……時間切れだな」
ぽつりと落とされたその言葉に、空気が一段階重く沈む。
「……!」
ザーラの表情が、はっきりと変わる。
「……来る」
もう隠せない距離まで迫った気配が、背中に張り付くように近づいてきている。
葉を踏む音。
呼吸。
複数。
逃げ切るだけでは、足りない。
「……」
リオンが、ゆっくりと足を止め、振り返る。
その目は、先ほどまでの軽さを完全に消し去り、冷えきった戦闘の色へと変わっている。
静かに、ひとつ息を吐く。
「……おい」
ザーラにだけ届く声で、短く呼ぶ。
「……三十、数える」
「……?」
意味を測りきれず、ザーラの眉がわずかに寄る。
「……その間に、抜けろ」
「……!」
理解した瞬間、心臓が強く跳ねる。
「……でも——」
言いかけた言葉は、
「……いいから行け」
低く、しかし有無を言わせない圧で叩き切られる。
「……」
ザーラは、一瞬だけ目を閉じる。
判断。
迷いを、捨てる。
「……行くわよ」
ルティの手を強く引く。
「……!」
ルティも、びくっとしながらも必死に足を動かす。
二人は、再び森の奥へと走り出す。
その背中を。
リオンは、一度だけ見る。
ほんの一瞬だけ、目を細める。
何かを確かめるように。
それから。
完全に、前を向く。
「……さて」
小さく呟き、一歩前に踏み出す。
その瞬間。
森の奥から、影が現れる。
一つではない。
二つ、三つ、さらにその奥。
音もなく広がりながら、じわじわと包囲を狭めてくる。
「……」
その中心に、リオンは一人で立つ。
逃げる様子は、一切ない。
「……いたか」
男の一人が、低く言う。
「……一人か?」
疑いを含んだ視線が突き刺さる。
リオンは、肩をすくめる。
「……そう見えるなら、そうだな」
軽く、だが隙のない返答。
「……ガキはどうした」
ほんの一瞬の沈黙。
それから。
「……知らんな」
表情ひとつ動かさず、平然と嘘を置く。
その嘘は、あまりにも自然で、逆に苛立ちを呼ぶ。
「……」
空気が変わる。
疑いから、確信へ。
次の瞬間。
リオンが動く。
速い――という認識すら追いつかない速度で、一歩で間合いを潰す。
「……っ!」
誰も反応できない。
踏み込んだ足元。
地面を、わずかに“外す”。
「……!」
空気が歪む。
さっきザーラが感じた“境界”。
それを、踏み抜くように使う。
足場がずれる。
感覚が狂う。
男の体が、ほんのわずかに傾く。
それだけで、十分だった。
流れるように体を入れ替え、二人目の足元も崩し、三人目の重心を巻き込む。
「……!?」
何が起きたのか理解する前に、連鎖的に体勢が崩れる。
「……」
リオンは、その中心でただ立っている。
息ひとつ乱さず。
「……雑だな」
ぽつりと落とす。
その一言で、場の力関係がはっきりと塗り替わる。
完全に。
“格上”。
「……何者だ」
警戒が、明確な恐れへと変わる。
リオンは、少しだけ考える素振りをしてから。
「……ただの案内人だ」
軽く言う。
誰も、信じない。
だが。
そのやり取りの間にも、時間は確実に削れていく。
三十。
きっちりと。
「……」
リオンが、わずかに息を吐く。
役目は終わりだと言わんばかりに、一歩だけ後ろへ下がる。
「……じゃあな」
次の瞬間。
その姿が、ふっと消える。
地面に溶けるように、“道”の中へと沈む。
残されたのは、崩れた包囲と、遅れた理解だけ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
森の奥。
「……っ、は……っ」
ザーラとルティは、まだ走り続けている。
呼吸は荒く、肺が焼けるように痛む。
それでも。
止まらない。
止まれない。
「……」
ふと、ザーラが一瞬だけ後ろを見る。
追ってくる気配が、ない。
その不自然さに、すぐに気づく。
「……」
リオンが、止めている。
理解と同時に、歯を食いしばる。
あの判断が正しかったのかどうかを考える余裕は、もうどこにもない。
「……」
ルティが、ぎゅっと手を握る。
小さな手。
震えながらも、離さない。
「……あのひと……」
息の合間に、かすれる声で。
「……だいじょうぶ?」
その問いは、あまりにもまっすぐで。
ザーラは、一瞬だけ目を伏せかけて。
すぐに、前を見据える。
「……大丈夫よ」
言い切る。
信じるしかないからではなく。
信じると決める。
その形で。
「……」
ルティは、小さくうなずく。
それだけで、納得する。
ぎゅっと。
スプーンを握りしめる。
まだ、ほんのりとあたたかいそれを、宝物みたいに。




