第42話 追う者
同じ頃。
「……発現したか」
低く、抑えた声が、静まり返った室内の奥に沈むように落ちる。
報告を受ける男は、椅子に深く腰掛けたまま、表情をほとんど動かさずにその言葉だけを返す。
「……はい」
短い返答。
だが、その声にはわずかな緊張が混じっている。
「……間違いありません」
念を押すように続けられたその一言に、空気がわずかに張り詰める。
「……」
男は、何も言わないまま、机の上に置かれた指をゆっくりと持ち上げ――
とん。
間を置いて。
とん。
規則的でも、不規則でもない、思考のリズムを刻むような音だけが響く。
「……」
やがて。
「……確定だな」
その一言が落ちた瞬間、それまで曖昧に漂っていた状況が、はっきりと形を持つ。
「……」
空気が、変わる。
もはや。
“可能性”ではない。
「……」
“対象”が、完全に特定された。
「……」
男が、ゆっくりと立ち上がる。
その動きには無駄がなく、すでに次の段階へ移行していることが見て取れる。
「……増やせ」
短く。
だが、余地のない命令。
「……」
「……森を囲め」
淡々と続けられる指示は、まるで最初から決まっていた手順をなぞるように自然で。
「……はい」
返答もまた、迷いがない。
「……」
そして。
「……逃がすな」
静かに。
だが、その静けさこそが決定的で、覆せない結論として空間に刻まれる。
◇◇◇◇◇◇◇◇
森。
「……」
ルティは、まだザーラの服にしがみつくように寄り添ったまま、指先に力を込めて離れようとしない。
離れない。
離したくない、という意思がそのまま形になっている。
「……」
ザーラもまた、その小さな身体を振りほどくことはせず、むしろわずかに腕を寄せて、確かめるように支え続けている。
離さない。
それはもう、選択というよりも前提になっている。
「……」
しばらくのあいだ、二人は何も言わずに、ただ同じ場所に留まり、同じ呼吸の中に身を置く。
言葉がなくても、そこにあるものは十分すぎるほど伝わっている。
「……」
やがて。
ルティが、ほんの少しだけ顔を上げて、ためらいがちな声で呼ぶ。
「……ざーら」
「……なに」
ザーラは、すぐに応じる。
「……いっしょ?」
「……」
その問いは、あまりにも単純で、あまりにもまっすぐで。
余計な意味を含まない分だけ、逃げ場がない。
「……」
ザーラは、迷わない。
今、この瞬間に限っては。
「……ええ」
はっきりと、肯定する。
「……」
「……ずっと?」
さらに重ねられる問い。
「……」
ほんの一瞬だけ。
本当に一瞬だけ、視線が揺れる。
未来を思い描こうとして、描ききれない何かに触れるように。
「……」
それでも。
その迷いを押し込めて。
「……ずっとよ」
言い切る。
揺らがない形で。
「……!」
ルティの表情が、ぱっとほどける。
それだけで十分だと、全身で示すように。
「……」
そのまま、安心しきったように目を閉じる。
まだ疲れが残っているのか、すぐに呼吸がゆるやかに落ち着いていく。
「……」
ザーラは、その小さな頭にそっと手を置き、逃げないようにではなく、“ここにある”ことを確かめるように、やわらかく触れる。
「……」
その温度を、忘れないように。
「……」
守る。
今度こそ。
何があっても。
◇◇◇◇◇◇◇◇
森のさらに奥。
「……」
ザーラは、不意に足を止める。
それは視覚ではなく、感覚が先に反応した停止だった。
「……」
空気が、変わっている。
先ほどまでの“追われる側の森”とは明らかに違う。
もっと、静かで。
もっと、深く。
何かが“均されている”ような、不自然な均衡。
「……」
ルティが、不安そうにザーラの袖を小さく引く。
「……ざーら」
「……」
「……だれか、いる」
「……!」
ザーラの目が、一気に鋭さを帯びる。
気配は、確かにある。
だが。
近づいてくる気配ではない。
「……」
“そこに、最初からいる”。
まるで、待っていたかのように。
「……出てきなさい」
低く、抑えた声で告げる。
「……」
沈黙。
数秒。
それがやけに長く感じられる。
そして。
「……警戒心が強いな」
声。
男。
木の影から、ゆっくりと姿を現す。
長身。
軽装。
動きに無駄がなく、力を誇示する気配もないのに、どこか“崩れない軸”を持っている。
「……」
ザーラの視線が、さらに鋭くなる。
「……何者」
「……」
男は、肩をすくめて、軽く息を吐く。
「……通りすがり、と言いたいところだが」
「……」
「……それじゃあ嘘になるな」
あっさりと訂正する。
「……」
その視線が、一瞬だけルティへと向く。
「……」
ザーラが、即座に一歩ずれて、完全にその姿を隠す。
「……見るな」
低く、鋭く。
「……」
男が、わずかに眉を上げる。
「……なるほど」
小さく笑う。
「……その反応で十分だ」
「……」
「……追われてるな」
「……」
ザーラは答えない。
だが。
否定しないことが、そのまま肯定になる。
「……」
男が、森の奥へ視線を向ける。
「……囲われ始めてる」
「……!」
ザーラの呼吸が、わずかに変わる。
「……」
知っている。
すでに、感じ取っていた外の動き。
「……」
男は、続ける。
「……あいつら、本気だ」
「……」
「……ただの迷子を探してる動きじゃない」
「……」
「……“それ”を探してる」
再び、ルティを見る。
今度は、はっきりと。
「……」
ルティが、ほんの少しだけザーラの背中から顔をのぞかせる。
「……」
目が、合う。
数秒。
静かに、視線が交差する。
「……」
男の表情が、わずかに変わる。
驚きでも、敵意でもない。
「……」
“理解した”顔。
「……そういうことか」
ぽつり、と落ちる言葉。
「……」
ザーラの声が、さらに低く沈む。
「……何を知ってる」
「……」
男は、一拍だけ考える素振りを見せてから。
「……全部じゃない」
「……」
「……だが、お前よりは知ってる」
「……」
空気が、一段階張り詰める。
「……」
だが。
嘘ではないと、直感が告げている。
「……」
男が、一歩だけ距離を詰める。
「……来るな」
ザーラが、即座に構える。
「……」
男は、それ以上踏み込まずに止まる。
「……」
その距離。
その止まり方。
「……」
敵ではない。
だが。
味方とも言い切れない。
「……」
男が、静かに口を開く。
「……選べ」
「……」
「……このまま逃げ続けて、いずれ囲まれるか」
「……」
「……俺を使って、抜けるか」
「……」
ザーラの目が、細くなる。
簡単な選択ではない。
だが。
時間が、残されていない。
「……」
そのとき。
ルティが、小さな声でつぶやく。
「……ザーラ」
「……」
「……このひと、こわくない」
「……」
その一言が。
静かに、しかし確かに、ザーラの中の均衡を揺らす。
「……」
ルティは、嘘をつかない。
そして。
その“感覚”が、先ほど現実を変えたばかりだという事実がある。
「……」
男が、小さく息を吐く。
「……いい勘してるな」
「……」
「……時間がない」
森の奥へ視線を向ける。
「……もう来る」
「……」
ザーラは、目を閉じる。
ほんの一瞬。
思考を切り詰める。
そして。
目を開く。
「……条件は」
「……」
男が、わずかに口元を上げる。
「……いい判断だ」




