第41話 走る理由の先
ザーラは、その小さな重みを腕の中で感じながら、ゆっくりと周囲に視線を巡らせる。
気配は、ない。
だが。
(……いないんじゃない……来る準備をしている)
さっきの男。
あの余裕。
追ってこなかった理由。
すべてが、“この先で捕まえるための間”だったと理解できてしまう。
「……ふっ」
息を、静かに吐く。
(……なら、逃げ切る)
短く。
それだけを、選ぶ。
「……」
そのとき。
ルティの手の中。
スプーンが、またほんのわずかに温度を持ち直す。
「……?」
ザーラの視線が、そこへ落ちる。
さっきより弱い。
けれど。
消えていない。
「……」
その事実が、ひとつの確信に変わる。
(……あの場所だけじゃない)
(……この子が、“持っている”)
泉ではなく。
場所ではなく。
ルティ自身。
「……」
ザーラの指が、ほんの一瞬だけ強くなる。
(……だから狙われる)
同時に。
(……だから、守れる)
矛盾する二つが、同時に成立する。
「……」
ゆっくりと、立ち上がる。
ルティを抱いたまま。
「……行くわよ」
今度は、さっきよりも少しだけ柔らかい声で。
「……うん……」
半分眠りながらも、しっかりと返事が返る。
そのことに、わずかに目を細める。
「……」
歩き出す。
さっきのような全力の逃走ではない。
だが。
確実に、遠ざかるための歩み。
「……」
森の奥は、まだ続いている。
だがその奥は、もう“隠れるための場所”ではなくなっている。
「……」
ザーラの視線が、前へ向く。
(……抜ける)
森を。
囲まれる前に。
「……」
その決意の中で。
ふと。
ルティの小さな手が、服越しにぎゅっと握り返してくる。
眠りかけているのに。
離さない。
「……」
ザーラの呼吸が、ほんのわずかに緩む。
(……離れない)
それは。
約束だからではなく、もう、そうなってしまっているから。
「……」
背後の森。
見えないところで、何かが動いている。
確実に。
広がるように。
「……」
それでも。
ザーラは、振り返らない。
振り返れば、足が止まると知っているから。
「……」
代わりに。
腕の中の重みを、確かめる。
あたたかさを、確かめる。
「……」
そして、小さく。
ほとんど聞こえない声で。
「……絶対に、離さない」
それは、誰に向けた言葉でもなく。
ただ、“これから”に対しての宣言だった。
森の外では。
包囲が、静かに進んでいる。
逃げ場は、確実に狭まっていく。
けれど。
その中心から、離れていく二つの影は。
まだ、誰にも止められていない。
そして、ルティの手の中では小さな光が消えずに、残り続けていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
森の中。
光が、少しだけ強くなる。
夜が、ほどけていく。
「……」
ザーラは、歩いている。
腕の中のルティ、小さな重み。
「……」
さっきまでの緊張が、完全に消えたわけじゃない。
でも。
ほんの少しだけ、呼吸が、戻る。
「……」
足を止める。
大きな木の根元。
影が、やわらかい。
「……ここで、少しだけ休むわ」
「……ん……」
ルティが、うっすら目を開ける。
まだ、眠い……でも。
「……ざーら……?」
ちゃんと、確認する。
「……ええ、ここにいる」
「……」
それだけで安心したように、また力が抜ける。
「……」
ザーラは、ゆっくりと座る。
ルティを、膝の上へ。
「……」
軽い……それなのに。
この存在の重さだけは、増えていく。
「……」
ルティが居心地を探すみたいに、もぞもぞと動く。
「……」
ザーラの服を、ぎゅっとつかむ。
「……ここ……」
「……?」
「……ここ、あったかい」
「……」
少しだけ、目を細める。
「……そう」
「……」
ルティが、顔を押しつけて、完全に、くっつく。
「……」
その無防備さに、ほんの一瞬だけ。
胸の奥が、やわらかくほどける。
「……」
ふと。
小さな手が、動く。
「……」
スプーン。
取り出す。
ぎゅっと握っていたもの。
「……」
それを、じっと見て。
「……ざーら」
「……なに」
「……これ」
差し出す。
少しだけ、得意げ。
「……ひかる」
「……」
ザーラは、それを見る。
淡い光。
まだ、残っている。
「……」
ルティは、少し考える。
それから。
「……これね」
「……?」
「……ざーら、まもった」
「……」
言葉が、止まる。
「……」
あまりにも、まっすぐで。
あまりにも、疑いがない。
「……」
ザーラは、ゆっくりと息を吐く。
それから。
「……ええ」
否定しない。
「……」
「……ありがとう」
ルティの目が、ぱっと開く。
「……!」
少しだけ、驚いた顔。
それから。
にこっ、と笑う。
「……うん」
誇らしげ。
「……」
ザーラは、その頭をそっと撫でる。
やわらかい髪。
指に、すぐなじむ。
「……」
ルティが、気持ちよさそうに目を細める。
「……」
さっきまでの恐怖が、完全に消えたわけじゃない。
でも。
「……」
上書きされていく。
少しずつ。
あたたかさで。
「……」
そのとき。
小さな音。
ぐぅ。
「……」
ルティが、ぴたっと止まる。
「……」
自分のお腹。
見る。
「……」
それから。
そっと、ザーラを見る。
「……おなか……」
小さく。
ちょっとだけ、困った顔。
「……すいた……」
「……」
ザーラは、一瞬だけ目を瞬かせて。
それから、ほんのわずかに、笑う。
「……そうね」
「……」
荷を開き、少しだけ残していた食べ物を出す。
「……これだけよ」
「……!」
すぐに、元気になる。
単純で……でも、それが、ありがたい。
「……」
ルティは、両手で受け取る。
大事そうに。
それから。
「……はんぶんこ」
また、差し出す。
「……」
ザーラは、一瞬だけ目を細めて。
「……ええ」
受け取る。
二人で、食べる。
ゆっくり……静かに。
「……」
森は、まだ危険なまま。
外では、確実に包囲が進んでいる。
時間も、ない。
それでも。
「……」
この一瞬だけは。
奪われていない。
「……」
ルティが、もぐもぐしながら。
ふと。
「……ざーら」
「……なに」
「……つぎも、いっしょ?」
その問いは。
未来に向いている。
まだ見えない、先に。
ザーラは、迷わない。
今度は、まったく。
「……ええ」
「……」
「……次も、その先も、一緒よ」
ルティは、少しだけ考えて。
それから。
満足そうに、うなずく。
「……うん」
その声は、小さい。
でも。
確かに。
未来へ、つながっている。
「……」
ザーラは、立ち上がる。
ルティを、抱き上げる。
「……行くわよ」
「……うん!」
さっきより、少し元気な声。
再び、歩き出す。
森の奥へ。
まだ終わっていない逃走の、その先へ。
けれど。
「……」
腕の中のぬくもりと。
小さな光は。
まだ、消えていない。
それだけで。
前に進む理由としては、十分だった。




