第38話 やくそくの準備
朝の光は、森の奥にまでゆっくりと差し込み、昨日と変わらないやわらかな明るさで、泉のまわりの空気を静かに満たしていた。
ルティは、その光に包まれるようにして、ゆっくりと目を覚ます。
「……ざーら?」
まだ夢の名残を引きずるような、頼りない声。
「……ここよ」
すぐそばから返ってくる声に、ルティの体から力が抜ける。
視線を向ければ、いつもと同じ場所に、いつもと同じようにザーラがいる。
それだけで、十分だった。
ルティは、小さく体を起こしながら、まだ少し重たいまぶたをこすり、それからふっと笑う。
「……おはよ」
「……ええ、おはよう」
そのやり取りは、いつもと変わらない。
けれど、その声の奥に、ごくわずかに混じった硬さに、ルティは気づかない。
気づく必要も、まだない。
◇◇◇◇◇◇◇◇
あたりまえの時間
泉のそばでは、今日も変わらない時間が流れていた。
ルティは、いつものようにしゃがみ込み、水面を覗き込みながら、スプーンをそっと差し入れては、ちゃぷん、と小さな波紋を作っている。
光が揺れる。
水が応える。
そのやり取りに、理由はいらない。
ただ、それが楽しい。
ザーラは、その少し離れた場所で、薬草を束ねながら手を動かしている。
動作は落ち着いていて、無駄がない。
けれど、その視線は一定ではなく、周囲を、音を、空気の揺れを、絶えず拾い上げている。
“ここは安全だ”という感覚を、意識的に否定し続けるように。
ルティが、ふと振り向く。
「……ざーら」
「……なに」
「……あれ、なに?」
小さな指が示す先には、丸く磨かれたような白い石がひとつ、草の間に半分埋もれるように転がっていた。
ザーラはそれを拾い上げ、手のひらの上で転がすようにして確かめる。
「……ただの石よ」
それ以上でも、それ以下でもない、何の変哲もないもの。
けれど——
「……きれい」
ルティは、そう言って迷いなく手を伸ばす。
価値の基準は、ただ“きれいかどうか”だけ。
「……ほしい」
その一言に、ザーラの動きが、ほんの一瞬だけ止まる。
些細なことのはずなのに。
なぜか、その“持っていく”という行為が、別れの準備のように感じられてしまう。
「……いいわよ」
短く答え、石を手渡す。
ルティは、すぐにそれを大事そうに握りしめ、スプーンと一緒に胸の前に抱える。
それだけで、ひとつ宝物が増えたように、嬉しそうに笑う。
ザーラは、その様子を見て、わずかに目を伏せる。
“持ち出せるもの”を増やしているのは、自分の方なのに。
◇◇◇◇◇◇◇◇
昼の光が、遺跡の中にまだらな影を落としている。
二人は、その中をゆっくりと歩いていた。
ルティは、いつものようにザーラの手を握り、歩幅の違いに合わせて小さく足を動かしている。
「……ザーラ」
「……なに」
「……どこいくの?」
無邪気な問い。
ザーラは、ほんのわずかに視線を逸らす。
言葉を選ぶ時間は、ほんの一瞬しかない。
「……少し、探しもの」
嘘ではない。
だが、それが“ここを出る準備”であることまでは、含まれていない。
ルティは、それ以上を求めない。
ただ、納得してうなずき、また前を向く。
それで十分だと思っている。
そして、その“十分さ”が、ザーラの胸に静かに重く積もる。
◇◇◇◇◇◇◇◇
夕方の光が赤みを帯び始める頃、ザーラは一人で動いていた。
ルティが、穏やかな寝息を立てているあいだに。
必要なものだけを、静かに選び取る。
薬草。
乾いた布。
水袋。
どれも、これからのために必要なもの。
けれど、それを選ぶたびに、“ここに残していくもの”の方が、はっきりと意識に浮かび上がる。
多くは持てない。
重さは、そのまま逃げ遅れにつながる。
だからこそ、削る。
削って、削って、最低限だけを残す。
その手が、ふと止まる。
振り返る。
ルティが、そこにいる。
無防備に眠り、何も知らず、この場所を“当たり前”だと思っているまま。
胸の奥が、ゆっくりと締めつけられる。
もし、このまま。
何も知らせずに、ここで過ごし続けることができたなら。
そんな考えが、ほんの一瞬だけよぎる。
すぐに、消す。
それは、現実ではない。
もう、選べない。
目を閉じて、息を整える。
それから、再び手を動かす。
◇◇◇◇◇◇◇◇
夜。
ルティが、小さく身じろいで目を覚ます。
暗さに不安を覚えたのか、すぐにザーラの姿を探す。
「……ざーら?」
「……ここよ」
間を置かずに返る声に、ルティはすぐに安心し、その手を探して握る。
ぎゅっと。
ザーラも、ためらいなく握り返す。
しばらく、言葉はない。
ただ、温度だけが、そこにある。
やがて、ルティが小さく口を開く。
「……あしたも、ここ?」
その問いは、あまりにも自然で、あまりにも無垢で。
だからこそ、逃げ場がない。
ザーラは、すぐには答えない。
嘘をつけば、簡単だ。
けれど、それは選ばない。
ゆっくりと息を吐き、言葉を選ぶ。
「……少しだけ、遠くに行くかもしれない」
やわらかく。
だが、確かに現実へと繋がる言い方で。
ルティは、首をかしげる。
意味のすべては理解できない。
それでも、不安だけは感じ取る。
「……いや」
ぽつりとこぼす。
「……ここ、すき」
「……ざーらと、ここ」
その言葉は、まっすぐに、逃げ場もなく胸に届く。
ザーラは、わずかに笑う。
やさしく。
けれど、その奥に、どうしても消せない苦さを残したまま。
「……ええ」
短く肯定する。
それから、少しだけ手に力を込める。
「……でもね」
「……どこに行っても、一緒よ」
その言葉だけは、嘘ではない。
ルティは、すぐにうなずく。
それで十分だと、疑いもなく信じる。
そのまま、安心したように目を閉じ、再び眠りへと落ちていく。
ザーラは、しばらくその手を握ったまま、動かない。
やがて、小さく、しかしはっきりと呟く。
「……守る」
それは、誰に向けた言葉でもなく。
もう、引き返せない自分自身への、確かな誓いだった。




