第37話 触れられないはずのもの
■「触れられないはずのもの」
夜の森は、深く息を潜めたように静まり返っていて、耳を澄ませばかすかな虫の声と、遠くを渡る風の気配だけが、かろうじて世界がまだ動いていることを知らせていた。
ルティは、すぐそばで小さな体を丸めるようにして眠っている。
規則正しい寝息が、かすかに胸を上下させ、その無防備な安らぎが、逆にこの場所の異質さを際立たせていた。
ザーラは、その隣に座ったまま、眠ることなく、ただ静かに外の気配へと意識を張り巡らせている。
目は閉じていない。
だが、見ているのは景色ではなく、空気の揺らぎや、音の途切れ方のような、目に見えない“異変”だった。
本来なら、何もないはずだった。
この場所は、触れられない。
踏み込めない。
そういう“はず”の領域だった。
それでも——
先ほど、泉の光が強く揺れた瞬間の感覚が、どうしても頭から離れない。
あれは、ただの偶然ではない。
“何かが触れた”反応だった。
ザーラは、ゆっくりと立ち上がる。
無駄な音を一切立てないように、呼吸すら浅く整えながら、一歩ずつ境界の方へと近づいていく。
見えない線。
だが、確かに“そこにある”とわかる場所。
その手前で、足を止める。
耳を澄ます。
風の流れ。
葉の擦れる音。
虫の羽音。
そして——
混ざっている。
わずかに。
確かに。
“規則的な音”。
足音だった。
遠い。
だが、一直線に、迷いなくこちらへ向かっている。
ザーラの喉の奥が、わずかに強張る。
こんな時間に、この奥まで来る理由は一つしかない。
偶然ではない。
外れてもいない。
息を止める。
動かない。
ただ、待つ。
やがて、音は境界のすぐ外で、ぴたりと止まった。
沈黙が落ちる。
その沈黙は、ただ静かなだけではなく、まるでこちらの存在を測るように、重く、濃く、空気に張り付いてくる。
そして——
ざり、と。
一歩。
踏み込まれる。
ザーラの瞳が、はっきりと見開かれる。
“入れた”。
完全ではない。
深くでもない。
ほんの、半歩。
だが、それでも——
触れている。
境界に。
ありえないはずのことが、起きている。
空気が、わずかに歪む。
見えない膜が、押し込まれるように震え、その余波が奥へと伝わっていく。
泉の水面が、遠くでかすかに震えた。
その揺れに呼応するように、ルティが小さく身じろぐ。
ザーラは、ほとんど反射のように踵を返し、すぐにルティの元へ戻る。
しゃがみ込み、顔を覗き込む。
目は閉じたまま。
だが、眉がわずかに寄っている。
不安。
夢の中にまで、何かが触れている。
ザーラは、ためらわずにその頭へ手を置き、ゆっくりと撫でる。
指先は、意識してやわらかく。
音を立てないように。
「……大丈夫」
ほとんど息と変わらない声で、そっと囁く。
数度、撫でるうちに、ルティの呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻し、眉の緊張もほどけていく。
その安らぎを確認してから、ザーラはゆっくりと顔を上げる。
外。
男が、立っている。
境界のすぐ向こうに。
見えてはいない。
視覚としては、ただの森の闇があるだけ。
だが——
“そこにいる”。
確信だけが、鋭く伝わってくる。
男が、ゆっくりと手を伸ばす。
空間へ。
何もないはずの場所へ。
触れる。
その瞬間、わずかに。
ほんのわずかに。
抵抗が、返る。
男の目が、細くなる。
理解したのではない。
だが、気づいた。
「……見つけた」
低く、確信を含んだ声が落ちる。
その言葉が、境界そのものを震わせるように広がり、内側へと染み込んでくる。
泉の光が、はっきりと揺れた。
いつもより強く、明確に。
その揺らぎに呼応するように、眠るルティの手の中で、スプーンが淡く光を帯びる。
無意識のまま、ぎゅっと握りしめる。
ザーラは、それを見逃さない。
すべてが、つながる。
守られている。
だが、完全ではない。
時間が削られている。
“ここにいれば安全”という前提が、静かに崩れ始めている。
外の男は、それ以上踏み込もうとはしない。
無理に壊そうともしない。
だが、背を向けるその直前。
一度だけ、振り返る。
何もない空間へ向けて。
まっすぐに。
その視線だけが、確かに“届いている”。
やがて、気配は遠ざかる。
音も、存在感も、すべてが森の奥へと溶けていく。
静寂が戻る。
だが——
もう、同じ静寂ではない。
◇◇◇◇◇◇◇◇
■「壊れ始める安心」
ザーラは、ゆっくりとルティの手を取る。
先ほどより、わずかに強く。
無意識に。
その力に反応するように、ルティがうっすらと目を開ける。
「……ざーら?」
眠気と不安が混ざった、小さな声。
「……起きたの」
できるだけ穏やかに、いつもと同じ調子で返す。
ルティは、小さくうなずきながら、その手を握り返す。
迷いなく。
疑いなく。
「……だいじょうぶ?」
逆に、そう問う。
ザーラは、一瞬だけ言葉を失う。
大丈夫ではない。
状況は、むしろ悪化している。
だが、それを伝えることに意味はない。
それよりも。
この手を離さないことの方が、今は重要だった。
「……大丈夫」
静かに、はっきりと、そう言う。
その声は優しい。
だが、わずかに重みを帯びている。
ルティは、それを疑わない。
そのまま、安心したように目を細め、手の温もりに身を預ける。
完全な信頼。
それが、ザーラの胸の奥を、静かに締めつける。
守らなければならない。
もう、“ここにいればいい”では足りない。
動かなければならない。
選ばなければならない。
そして、その選択は——
きっと、やさしいものでは済まない。
ザーラは、ルティの手を握ったまま、わずかに視線を上げる。
見えない境界の向こう。
そこにはもう、“ただの森”ではないものがあると、はっきりわかっていた。




