第36話 小さな約束
泉のそば、やわらかな光が揺れる場所で、ルティは膝を折り、両手の中に収めた小さな赤い実を、
まるで大事な宝物のように、じっと見つめていた。
指先でそっと転がしてみて、その丸みや重さを確かめるように、ゆっくりと息を吐く。
「……たべる?」
背後からかけられたザーラの声は、警戒を解いたぶんだけ、どこかやわらかく
それでいて完全には気を抜いていない響きを含んでいる。
ルティは迷いなく、こくんと小さくうなずく。
ザーラはその様子を一瞬だけ見つめてから、手に取った実を器用に割り、
やわらかな果肉を露わにすると、慎重にその半分を差し出した。
「……少しだけよ」
その言葉には、食べ過ぎへの配慮だけでなく、
“ここにあるものはすべて無条件ではない”という、どこか現実的な線引きが含まれている。
けれどルティはそんな含みを知る由もなく、
ぱっと顔を明るくして受け取り、そのまま小さくかじる。
「……!」
次の瞬間、目が大きく見開かれ、驚きと喜びがそのまま表情に浮かぶ。
「あまい」
その一言は、飾り気もなく、ただ純粋に感じたままの感想で、
だからこそ妙にまっすぐに響いた。
ザーラはわずかに目を細める。
「……そう」
短く応じるだけなのに、その声音には、どこか安堵のようなものが滲んでいる。
ルティはもう一度、「あまい」と確かめるように繰り返し、
それから手の中に残ったもう半分を見つめる。
ほんの一瞬だけ考えたあと、そのまま顔を上げて、
自然な動作でザーラの方へ差し出した。
「……どうぞ」
あまりにも迷いのない仕草だった。
ザーラはその手を見て、ほんの一瞬だけ、呼吸を止める。
拒む理由はいくらでも思い浮かぶ――毒見、距離、関係、立場。
けれど、それ以上に、この小さな手の差し出し方が、あまりにも疑いを知らなすぎて。
「……」
結局、静かに受け取り、ほんの少しだけかじる。
甘い。
確かに甘い。
けれどその味よりも先に、胸の奥にじわりと広がる別の感覚の方が、はっきりと自覚される。
重いわけではない、けれど確実に残る何か。
ルティがじっと見上げている。
「……おいしい?」
「……ええ」
その返答を聞いた瞬間、ルティの顔が満足そうにゆるむ。
その笑顔は、結果を疑うことすら知らない、ただ“共有できた”ことへの喜びだけでできている。
やがて、ぽつりと。
「……また、たべる」
何気ない言葉。
未来を疑わない言い方。
けれど。
ザーラの中で、その言葉は軽く通り過ぎなかった。
“また”という響きが、静かに引っかかる。
続く前提。
続ける前提。
続けられるという前提。
「……そうね」
少し遅れてから、言葉を返す。
「……また、見つけましょう」
その約束は、あまりにも簡単で、あまりにも壊れやすく、
それでも――今この瞬間に限って言えば、嘘ではなかった。
ルティは、力いっぱいにうなずく。
その素直さに、ザーラは一瞬だけ目を伏せる。
自分がどこまでそれを守れるのか、まだ決めきれていないことを、知っているから。
◇◇◇◇◇◇◇◇
■「守りたいもの」
夕方の光が赤みを帯び、森の影がゆっくりと長く伸びていくころ、
ルティの体は次第に力を失い、こくり、こくりと、眠気に引き込まれていく。
ザーラはその様子に気づき、音を立てないようにそっと近づくと
ためらいなくその小さな体を抱き上げた。
軽い。
思っていたよりも、ずっと。
その軽さは単なる体重ではなく、“守るべきものの脆さ”として、腕の中に残る。
無意識に、少しだけ抱きしめる力が強くなる。
そのわずかな圧に反応するように、ルティが目を開ける。
「……ざーら」
「……なに」
「……ここ、すき」
短い言葉。
けれど、その中にはこの場所への安心と、今この状況そのものへの信頼が、
まるごと含まれている。
「……ざーらも、すき」
その続きは、予想できたはずなのに。
ザーラの中で、言葉が詰まる。
返さなければならないと、頭では理解している。
けれど、それを口にした瞬間に何かが決定的になる気がして、ほんのわずかに躊躇する。
ルティはそれを待たない。
安心しきったまま、再び目を閉じ、すぐに静かな寝息へと落ちていく。
その無防備さが、逆に胸に刺さる。
ザーラはしばらくそのまま動かず、やがて小さく、ほとんど聞こえない声でつぶやく。
「……ええ」
遅れて、ようやく。
◇◇◇◇◇◇◇◇
■「ひび」
夜。
森は静まり返り、虫の声と風のわずかな流れだけが、時間の経過を知らせている。
ザーラは眠らず、境界の近くでじっと立っていた。
この場所が守られていることは、もはや感覚として理解している。
だが同時に、それが“絶対ではない”ことも、同じくらいはっきりと感じていた。
一歩、境界へと近づく。
目には見えないが、確かに“線”がある。
そこから先は、別の空気。
別の重さ。
そして、その外側。
かすかに。
本当にかすかに。
音がある。
遠い。
けれど、確実にこちらへ向いている動き。
ザーラの目が、ゆっくりと細くなる。
追跡は、まだ終わっていない。
むしろ、広がっている。
静かに踵を返し、ルティのもとへ戻る。
眠っている。
何も知らずに。
その顔を見下ろしながら、ザーラは自分の内側に浮かぶ結論を、はっきりと受け入れる。
ここにいるだけでは、足りない。
守るためには、いずれ動かなければならない。
そのとき。
泉の水面が、音もなく揺れる。
夜のはずなのに、淡い光がひとつ、ふわりと浮かび上がる。
ザーラは視線だけを向ける。
光はすぐに消える。
けれど、その一瞬で十分だった。
先ほどよりも、明確な“意思”を感じる。
まるで、警告。
あるいは、促し。
ザーラは再びルティを見る。
静かな寝息。
あたたかな存在。
そのすべてを確かめるように、一度だけ目を閉じる。
そして決める。
“ここに留まるだけでは、守れない”
次の一手が必要だ。
だが――
その“次”が、まだ形にならないまま、夜は静かに深まっていく。




