第39話 しずかな朝
まだ、夜の名残が空気の底に沈んでいて、光は差し始めているのに、森の奥だけがどこか時間から取り残されたみたいに静まり返っている、その境目のような朝。
「……」
ザーラは、眠っていない。
一晩中、ほとんど瞬きをしないまま、音と気配と、わずかな空気の揺れに意識を張り付かせ続けていたせいで、身体は重いのに、神経だけが研ぎ澄まされすぎていて、逆に休めなくなっている。
準備は、終わっている。
小さな荷物は、必要最低限だけを詰め込んだはずなのに、それでも“ここを離れる”という現実の重さを、そのまま形にしたみたいに、やけに重く感じる。
「……」
視線が、自然とルティへ落ちる。
眠っている。
何も知らない顔で。
ここがもう、守ってくれる場所ではいられないかもしれないことも、外側から確実に近づいてきている手の存在も、全部、何一つ知らないまま。
「……」
胸の奥が、わずかに軋む。
守ると決めたはずなのに、その“守る”という選択が、結局この子から居場所を奪うことになる、その矛盾が、じわじわと内側に広がっていく。
それでも。
ここに留まることは、もう選べない。
「……」
そっと、近づく。
しゃがみ込む。
指先で、髪を整える。
淡い金色の髪は、朝の光を受ける前の、まだ少し冷たい空気の中で、やわらかく指に絡んで、その感触が、妙に現実感を伴って胸に残る。
「……」
ほんの一瞬、そのまま手を離せなくなる。
ここに、いられた時間。
短いのに、確かにあったもの。
それを、今から自分の手で断ち切るのだと、ようやくはっきり理解してしまう。
「……ルティ」
声が、わずかに低くなる。
「……ん……」
ゆっくりと、目が開く。
まだ、夢と現実のあいだで揺れているような、無防備な視線。
「……ざーら?」
「……起きて」
「……」
眠気を引きずりながら、それでも言われた通りに起き上がる、その素直さが、今は少しだけ、痛い。
「……行くわよ」
「……どこ?」
「……」
一瞬だけ、言葉が詰まる。
“逃げる”とも、“追われている”とも言えない。
「……少し遠く」
「……」
こくん、と迷いなくうなずく。
理由を求めない。
ただ、“ざーらが言うなら大丈夫”という、それだけで成立している信頼。
「……」
差し出した手を、ためらいもなく握る。
ぎゅっと。
その小さな力が、逆に、逃げ場をなくす。
泉の前を、通る。
何度も繰り返した、当たり前の動線。
でも今日は、その一歩一歩が、やけに意識される。
「……」
ルティが、ぴたりと足を止める。
振り返る。
泉。
光。
静かな水面。
昨日と、同じはずの景色。
でも。
“もう戻らない”という前提で見ると、それはまるで別の場所みたいに遠く感じる。
「……ばいばい」
小さな手が、ひらひらと揺れる。
ただの挨拶。
また来る前提の、軽い別れ。
「……」
ザーラは、何も言えない。
代わりに、ほんのわずかに頭を下げる。
それが、自分にできる精一杯の“礼”みたいに。
「……」
泉の奥で。
光が、ひとつ、ゆっくりと揺れる。
これまでより、少しだけはっきりと。
まるで、引き止めるでもなく、ただ“見送る”ことだけを選んだ存在のように。
「……」
その光を、見ないふりをする。
見てしまえば、足が止まる。
止まれば、終わる。
◇◇◇◇◇◇◇◇
森。
まだ、完全には明るくなっていない。
影が長く、視界が曖昧で、どこまでが安全でどこからが危険なのか、その境目が曖昧な時間。
「……」
二人は、歩く。
音を殺しながら、それでも速度は落とさず、無理のないぎりぎりを保ちながら。
「……ざーら」
「……なに」
「……どこいくの?」
「……」
ほんの一瞬だけ、言葉を探す。
「……あたらしいとこ」
「……」
こくん、と安心したようにうなずく。
その“安心”が、胸に刺さる。
「……」
しばらく進む。
森の気配が、少しずつ変わっていく。
見覚えのない地形。
逃げ切るために選んだはずのルート。
そのはずなのに——
「……」
ザーラの足が、ぴたりと止まる。
理屈より先に、身体が反応する。
「……?」
ルティも止まる。
「……ざーら?」
「……」
答えない。
視線は、前方に固定されている。
「……」
そこに。
人影が、ある。
一つだけ。
逃げ道の“ちょうど先”に、最初からそこにいたみたいに、動かず、ただ立っている。
「……」
あり得ない配置。
回り込まれた?
読まれていた?
それとも——
最初から、“ここに来るしかない”ように誘導されていたのか。
「……」
背中に、冷たいものが走る。
「……やっとか」
男が、ゆっくりと顔を上げる。
視線が、正確にこちらを捉える。
迷いも、探る気配もない。
最初から、“ここにいると知っていた”目。
「……」
ザーラの呼吸が、わずかに乱れる。
隠れていたはずの場所。
切り離されていたはずの境界。
それを、越えて。
“見つけられている”。
「……下がって」
小さく、ルティに言う。
声は落ち着いているのに、内側では、選択肢が一気に削られていく感覚がはっきりとわかる。
「……」
ルティは、怖さを感じながらも、言われた通りに一歩だけ下がる。
でも、手は離さない。
ぎゅっと。
「……」
その温もりが、逆に現実を固定する。
逃げられない。
ここで、終わる可能性がある。
「……」
男が、一歩、近づく。
かさ、と乾いた音。
迷いがない。
まるで、もう“結果”が決まっている側の歩き方。
「……」
視線が、ルティへ移る。
細くなる。
「……それか」
確信。
確定。
逃げ場のない断定。
「……」
ザーラの心臓が、強く跳ねる。
その一瞬の揺れ。
ほんのわずかな動揺。
それを。
男は、見逃さない。
「……」
口元が、ゆっくりと歪む。
勝ちを知っている者の、余裕のある笑み。
「……」
その表情を見た瞬間。
ザーラの中で、何かが決定的に理解される。
“追いつかれた”のではない。
“ここで捕まえると決められていた”。
「……」
ルティの手が、さらに強く握られる。
震えている。
小さく。
「……ざーら」
助けを求める声。
「……」
それに応えなければならない。
守ると決めた。
ここで、折れるわけにはいかない。
それなのに——
逃げ道が、ない。
「……」
森が、静まり返る。
風も、音も、すべてが引いたみたいに。
その中心で。
三人だけが、対峙している。
そして。
“終わりが始まる直前”の静けさが、張り詰める。




