第30話 近づくもの
森の中は、つい先ほどまで感じていたやわらかな朝の気配が嘘のように引いていて、同じ場所であるはずなのに、どこか“音が削ぎ落とされたような静けさ”が、じわりと周囲に広がっていた。
「……」
ザーラは歩いているが、その足取りは明らかに先ほどより速く、しかし焦りを表に出さないよう一定のリズムを保ちながら、意識のほとんどを“後ろ”へと向けていた。
ルティの小さな手は、その動きに引かれるようにして握られていて、短い歩幅で必死に追いつこうとしながら、とことこと足音を刻んでいる。
「……ざーら」
「……なに」
「……はやい」
その言葉に、ザーラは一瞬だけ呼吸を区切り、言葉を選ぶような間を置いてから、できるだけ柔らかく返す。
「……少しだけ、ね」
ルティは意味のすべてを理解しているわけではないが、その声の調子から“ついていけばいい”と判断して、小さくうなずき、さらに握る力を少し強める。
「……」
ザーラは振り返らない。
振り返らないまま、耳だけを研ぎ澄ませて、風が葉を撫でる音や、遠くの小さな生き物の気配の中から、“異物”を拾い上げ続ける。
そして、その中に混じる。
規則的で、わずかに重い。
「……」
“違う音”。
ザーラの足が、ぴたりと止まる。
その止まり方はあまりにも唐突で、それまでの流れが一瞬で断ち切られたように、空気が張り詰める。
「……?」
ルティも同時に止まり、何が起きたのかはわからないまま、ただザーラの様子を見上げる。
ザーラは何も言わず、わずかに顎を引いて、耳を澄ませる。
遠くで、かさ、と葉が擦れる。
間を置いて、また、かさ。
その間隔は一定で、風の偶然ではありえない。
「……」
人だと、確信する。
その瞬間にはもう判断を終えていて、迷いは一切なかった。
「……こっち」
低く押し殺した声で言いながら、ルティの手を引き、道から外れた森の奥へと身体を滑り込ませる。
枝がわずかに服を引っかき、足場も不安定になる中で、ルティは一度よろけかけるが、それでも手だけは離さず、必死にしがみつくように握り続ける。
「……」
ザーラは、その小さな手の力を感じ取り、ほんのわずかにだけ握り返す強さを増やす。
それは言葉の代わりの合図であり、“離さない”という意思の確認でもあった。
木の影へと身を滑り込ませ、幹の陰に体を寄せて、呼吸をできる限り浅くする。
「……」
ルティには状況の詳細はわからない。
けれど、さっきまでの森とは明らかに違う空気、その“固さ”だけは、肌で感じ取っていた。
「……」
胸の奥が、少しだけざわつく。
理由はわからない。
でも、こわい。
「……」
スプーンをぎゅっと握りしめ、無意識のうちにザーラの腕へと体を寄せる。
ザーラは何も言わず、ただその肩にそっと手を添えて、動くな、と静かに伝える。
音が、近づいてくる。
かさ。
かさ。
やがて、その気配がすぐ向こう側で止まる。
見えない。
けれど、確実に“いる”。
「……」
ルティの呼吸が、わずかに速くなる。
それを感じ取ったザーラが、ほんの小さな動きで指を立て、“静かに”と合図する。
ルティははっとして、口元を両手で押さえ、こくんと必死にうなずく。
そのとき。
葉の隙間から、細い光が差し込む。
その一筋が、偶然にもルティの手元へ落ちる。
スプーンの縁に触れて。
きらり、と光が跳ねる。
「……!」
ほんの一瞬の、しかし鋭い反射。
ザーラの目がわずかに見開かれる。
同時に。
向こうの気配が、止まる。
「……?」
空気が、凍りついたように動かなくなる。
音が、消える。
時間だけが、引き延ばされる。
ザーラの心臓が、一拍ごとに強く打つ。
気づかれたか。
それとも、まだ。
判断がつかないまま、ただ一切の動きを止め続ける。
数秒が、異様に長く感じられる。
そして。
かさ、と再び音が動き出す。
今度は。
遠ざかる方向へ。
「……」
完全に気配が消えるまで、ザーラは動かない。
一歩も、息一つも、余計なことをしない。
やがて、森の音だけが戻ってくる。
風。
葉。
小さな生き物の気配。
それが“元に戻った”と判断して、ようやくザーラは、ゆっくりと息を吐き出す。
「……」
ルティも、それにつられるように、小さく息を吐く。
ふぅ、と。
顔を上げて、そっとザーラを見る。
「……だいじょうぶ?」
「……ええ、大丈夫」
短い返事。
けれど、その声の奥に残る緊張までは、完全には消えていない。
ルティはこくんとうなずくが、胸の奥に残るざわざわは、まだ消えずに残っている。
「……」
ザーラは静かに立ち上がり、周囲をもう一度だけ確かめてから、低く告げる。
「……行くわよ」
その声は先ほどよりさらに抑えられていて、状況が変わっていないことを示している。
ルティは何も聞かず、ただ手を差し出す。
その小さな手を、ザーラはしっかりと握り返す。
先ほどよりも、少しだけ強く。
「……」
二人は再び歩き出す。
今度は、より深く、より目立たないように、森の奥へと進んでいく。
光はまだ木々の間に落ちている。
やわらかく、美しいまま。
けれどその奥には。
確かに、こちらを追おうとする“意志を持った気配”が、静かに息づいていた。




