第31話 追う者たち
森の中は、風が通るたびに葉が擦れ合い、そのたびに無数の小さな音が生まれては消えていくが、その自然のざわめきの中に混じる“人為の痕跡”だけが、明確に浮き上がって見える場所があった。
「……」
男がゆっくりとしゃがみ込み、視線を落とした先にある地面を、まるで読み解くように見つめる。
そこには、はっきりと残された足跡があった。
ひとつは小さく、踏み込みが浅い。
そのすぐ横に、もうひとつ、重さを伴った大人の足跡。
「……間違いないな」
低く抑えた声で呟きながら、指先で土に触れ、その柔らかさと崩れ方を確かめる。
まだ乾ききっていない。
つまり、時間はそれほど経っていない。
後ろに立つ男もまた、同じように周囲へ視線を走らせながら、音と気配の流れを拾い上げていく。
「……二人だ」
「……ああ、子どもと大人」
断定に近い言い方だったが、それは推測ではなく、これまでの痕跡の積み重ねから導かれた“確信”だった。
「……新しいな」
「……近い」
短いやり取りの中に、無駄な言葉はない。
それぞれが必要な情報だけを拾い、共有し、次の動きへと即座に繋げていく。
風がひとつ、森を抜ける。
葉が揺れ、光がわずかに揺らぐ。
その瞬間、先頭の男が視線を細めた。
「……さっき、光った」
ぽつりと落とされたその言葉は、曖昧でありながら、決して見過ごしていいものではないという響きを持っていた。
「……見たか」
「……いや、だが——」
わずかに言葉を切り、森の奥へと目を向ける。
「……何かがあったのは確かだ」
“見えなかった”のではなく、“見逃さなかった”。
その違いが、この男たちの厄介さを物語っていた。
「……子どもだな」
「……ああ」
「ただの子どもじゃない」
即断。
そこに迷いは一切なく、その言葉の裏には、“だからこそ追っている”という前提がすでに含まれている。
「……だから連れている、か」
後ろの男が、わずかに息を吐く。
「……面倒だな」
「……価値があるなら、面倒で済む話だ」
その一言に、空気がほんの少しだけ重く沈む。
「……上も動く」
その言葉は短いが、“ここで終わる話ではない”という現実を示していた。
つまり、これは偶然の遭遇ではなく、すでに組織としての関心が向いている対象であるということ。
男はゆっくりと立ち上がる。
そして、迷いなく前を向く。
「……追う」
「……ああ」
その足取りには、もう“探る”という慎重さは残っていない。
あるのは、“確実に捕らえる”ための最短距離をなぞる動き。
二人は森の中へと再び踏み込み、痕跡を繋ぎながら、静かに、しかし確実に距離を詰めていく。
その背中はすでに、調査者ではなく。
「確保する側」のそれだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
一方で、ザーラは足を止めることなく進み続けているが、その内側では、状況の整理と選択の切り捨てが、ほとんど同時進行で行われていた。
「……」
追われている。
それはもう疑いようがなく、先ほど耳にした足音には、迷いや探索の揺らぎが一切なかった。
つまり、見つける前提で動いている。
「……」
このまま逃げ続けるか。
答えは、すぐに出る。
無理だ。
いずれ捕まる。
「……」
隠れるか。
それも同じ。
見つかるまでの時間が延びるだけで、結果は変わらない。
「……」
誰かを頼るか。
その選択肢が浮かんだ瞬間、ザーラの思考が一瞬だけ引っかかる。
“兄”。
「……」
無意識に顔をしかめる。
だめだ、と即座に切り捨てる。
あそこは守る場所ではない。
むしろ。
「……差し出す側」
その現実を思い出し、舌打ちになりかけた感情を、ぎりぎりで飲み込む。
「……」
選択肢が、削られていく。
残るのは、より悪くないものを選ぶしかない状況。
腕の中で、ルティが小さく動く。
「……ざーら」
「……なに」
「……あるく」
その一言に、ザーラはわずかに視線を落とす。
無理をさせるべきではない。
だが、抱え続けることもまた速度を落とす。
ほんの短い逡巡のあと。
「……無理しなくていい」
そう言うが、ルティは小さく首を振る。
「……あるく」
もう一度。
はっきりと。
「……」
ザーラは、その目を見て、静かに判断を下す。
ゆっくりと地面に下ろす。
「……離れないで」
「……」
こくん、と力強くうなずく。
そのまま、小さな手がぎゅっと握られる。
歩き出す足は決して速くはないが、それでも止まらない意思がある。
「……」
その姿を見た瞬間、ザーラの中で何かがはっきりと定まる。
逃げるだけでは足りない。
隠すだけでも足りない。
必要なのは。
「……場所」
守れる場所。
簡単には踏み込まれない場所。
危険はある。
だが、それでも。
「……今よりは、まし」
思い当たる場所がひとつある。
森の奥、さらに奥。
人が避ける場所。
「……」
ザーラはルティの手を握り直し、進む方向をわずかに変える。
より深く。
より人の気配から遠ざかる方へ。
ルティは何も問わない。
ただ、その手を信じてついてくる。
「……」
その小さな重みが、ザーラの決断を後押しする。
もう迷う時間はない。
選ぶしかない。
森は続いている。
深く。
暗く。
そして。
逃げ込むには、あまりにも都合のいい場所として、静かに口を開けていた。




