第28話 小さな休息
光は、すでに森の奥深くまで行き渡り、夜の名残をやわらかく押しのけるようにして、あたり一面を穏やかな朝の色へと塗り替えていた。
森の中には、冷えた空気の気配がわずかに残りながらも、それを包み込むようなぬくもりが満ちていて、葉の一枚一枚や、草の先に宿る露までもが、静かに光を受け止めていた。
「……」
ルティは、まだ外にいたまま、先ほどよりもほんの少しだけ大胆になった足取りで、あたりをゆっくりと見回している。
「……」
しゃがみ込んで、指先で草の表面をそっとなぞると、さらさらとした感触が伝わってきて、それがくすぐったいのか、思わず小さく息をもらすようにして笑みを浮かべる。
「……」
少し離れた場所に咲いている、小さくて白い花に気づき、そのかすかな揺れに引かれるようにして近づいていく。
「……」
指先で、壊してしまわないようにと気をつけながら、そっと触れると、そのやわらかさに一瞬だけ目を見開き、そのままじっと見つめ続ける。
「……はな」
ぽつりと、覚えたばかりの言葉を、確かめるように口にする。
「……」
その声を、ザーラは少し離れたところから聞いていて、わずかに視線を向ける。
「……ええ、花よ」
「……はな」
もう一度、今度は少しだけ嬉しそうな響きを含ませて繰り返す。
「……」
その様子を見ているうちに、ザーラの肩に入っていた力が、ほんのわずかではあるが確かに抜けていくのが、自分でもわかる。
「……」
ルティは、今度は別の方向へと歩き出し、とことこと不安定ながらも確かな足取りで進んでいく。
「……遠くに行かないで」
やや低く、それでも抑えた声で言う。
「……」
こくん、と素直にうなずき、その場でぴたりと止まると、すぐに引き返してくる。
その様子が、あまりにもまっすぐで。
「……」
ザーラの胸の奥に、小さく、しかし確かな何かが沈む。
(……ちゃんと、聞いている)
ただ守る対象として見ていたはずの存在が、少しずつ“関わってくる存在”へと変わっていることを、否応なく感じてしまう。
「……」
水袋を取り出し、軽く振ってから差し出す。
「……飲む?」
「……」
こくん、とまた素直にうなずき、両手で大事そうに受け取ると、少しぎこちない動きで口をつける。
ごく、ごく、と飲みながら、少しだけ水をこぼしてしまう。
「……」
自分でどうにかしようとして、手の甲で拭こうとするその仕草を見て。
「……いいわ」
ザーラは短く言って、布でそっと拭ってやる。
「……」
ルティは、その動きをじっと見上げている。
怒られない。
拒まれない。
「……」
それが分かった瞬間、ほんのわずかに肩の力が抜けて、ほっとしたように身体を寄せてくる。
ぴたりと、触れる距離。
「……」
ザーラは何も言わない。
だが、今度は——
離さない。
「……」
しばらくのあいだ、言葉のない時間が流れる。
風が葉を揺らし、光が揺れ、それに合わせて鳥の声が遠くで重なる。
「……」
ルティは、ポケットからスプーンを取り出し、両手で大事そうに持つと、それを光の中にかざしてみる。
きらり、と反射する光。
「……!」
思わず目を輝かせて、何度も角度を変えながら、その変化を確かめるように動かす。
光が跳ねて、揺れて。
そのたびに、小さく、でも確かに楽しそうな笑みがこぼれる。
「……」
ザーラは、それを見ている。
昨日までは見せなかった表情。
ただ生き延びるためではなく、“感じている顔”。
「……」
胸の奥が、静かにやわらぐ。
(……守る、だけじゃ足りない)
この時間そのものを。
この無防備な瞬間を。
壊させたくない。
「……」
そう思った、そのときだった。
ザーラの視線が、不意に地面へと引かれる。
少し離れた場所。
「……」
足跡。
自分たちのものではない、明らかに異なる形。
しかも、それは新しく、まだ土の湿り気を残している。
「……」
一瞬で、身体の奥が冷える。
さっきまでの光が、そのままなのに、空気だけが別のものに変わったような感覚。
(……近い)
「……」
ルティは、まだ気づいていない。
光とスプーンで遊びながら、世界の美しさだけを見ている。
「……」
ザーラは、ゆっくりと立ち上がる。
動きは静かに。
だが、内側はすでに張り詰めている。
「……ルティ」
「……?」
振り向く顔は、まだやわらかいまま。
「……行くわよ」
声が、わずかに低い。
「……」
ルティは一瞬だけ首をかしげるが、その違いを言葉にはできないまま、それでもすぐに理解したように歩み寄ってくる。
そして。
「……」
手を、伸ばす。
ためらいなく。
まっすぐに。
「……」
ザーラは、その手を見る。
昨日、自分が拒んだ手。
あのときの表情が、脳裏に焼きついたまま離れない。
「……」
ほんのわずかな逡巡。
だが、それはもう——
選び直す時間。
「……」
今度は、迷わずその手を取る。
しっかりと。
離さないように。
「……」
ルティの表情が、ぱっと明るくなる。
それだけで。
決断は、間違っていないと感じてしまう。
「……」
ザーラは、そのまま歩き出す。
さきほどより、わずかに速く。
「……」
ルティも、小さな足で懸命についてくる。
転ばないように、でも離れないように。
「……」
さっきまでのやさしい空気は、まだ完全には消えていない。
光も、風も、そのままそこにある。
だが、その下に。
確実に。
「……」
“追うもの”の気配が、近づいていた。




