第25話 夜の森
夜の森は、深く、そして思っているよりも音に満ちていて、完全な闇ではないはずなのに、視界の外側からじわじわと何かが迫ってくるような気配が、絶えずまとわりついていた。
「……」
ザーラは、立ち止まらずに歩いている。
一定の速さで、呼吸を乱さないように、足音を必要以上に立てないように、意識のほとんどを周囲に向けながら、それでも歩みそのものは決して止めない。
腕の中には、ルティ。
「……」
小さな体が、しっかりと腕に収まっている。
軽いはずなのに、その重みは妙に確かで、まるで“ここにいる”という事実だけを、繰り返し刻みつけてくるみたいだった。
「……」
ザーラは、ほんの少しだけ抱き直す。
逃げている最中だというのに、その動きは妙に丁寧で、揺らさないように、起こさないようにと、無意識に気を配っている。
風が、枝葉を揺らす。
遠くで、何かが鳴く。
どこかで、小さく枝が折れる音。
「……」
足が、ほんのわずかに速くなる。
一歩。
また一歩。
そのとき。
「……ん」
腕の中から、かすかな声が漏れる。
「……」
ザーラの足が、ほんの一瞬だけ緩む。
完全には止まらない。
でも、わずかに速度が落ちる。
「……」
布の中で、小さく動く気配。
「……ざーら」
眠気の残った、かすれた声。
「……起きたの」
低く抑えながらも、はっきりとやわらかい声で返す。
「……」
ルティが、ゆっくりと目を開ける。
暗い。
天井じゃない。
壁もない。
「……」
知らない場所。
「……」
一瞬だけ、視線が迷う。
それから。
ぎゅっ。
手が動く。
スプーン。
ちゃんと、ある。
「……」
それを確かめた瞬間、ほんの少しだけ、呼吸が落ち着く。
顔を上げる。
「……ざーら」
「……なに」
「……どこ、ここ」
言葉は少ないけれど、不安はそのまま乗っている。
「……森よ」
「……」
少しだけ、考える。
「……おうち、は?」
「……」
ザーラの視線が、一瞬だけ前方から外れる。
ほんのわずかな間。
「……しばらく、戻らない」
はっきりと言う。
濁さない。
「……」
ルティは、意味を全部は理解しない。
でも。
「……」
“いつもと違う”ということだけは、ちゃんとわかる。
「……」
ぎゅっ。
服の端をつかむ。
少し強めに。
「……」
ザーラは、その手をほどかない。
むしろ。
わずかに腕の位置を変えて、より安定するように抱え直す。
「……大丈夫」
短く。
でも、さっきよりも少しだけ強く。
「……」
ルティは、その顔を見る。
暗くて、全部は見えない。
でも。
「……」
少しだけ、いつもと違う。
固い。
でも。
「……」
うそじゃない。
それだけは、なんとなくわかる。
「……」
こくん、と小さくうなずく。
その動きは、ほとんど反射みたいで、それでも確かに“信じる”という選択だった。
「……」
少しの沈黙。
再び、歩く音だけが続く。
「……ざーら」
「……なに」
「……ねむい」
「……寝なさい」
「……うん」
素直に返事をする。
でも。
「……」
すぐには目を閉じない。
代わりに。
そっと、顔を押しつける。
ザーラの胸へ。
「……」
布越しに伝わる体温。
規則的な、心臓の音。
とくん。
とくん。
「……」
少しだけ、呼吸がゆっくりになる。
「……ざーら」
「……なに」
「……いる?」
ほんの一言。
でも、それは確認だった。
「……いる」
間を置かずに返す。
「……うん」
それだけで。
ふっと、力が抜ける。
「……」
スプーンを、胸のあたりにぎゅっと当てる。
ほんのりと、あたたかい。
そのぬくもりと、抱えられている感覚が、ゆっくりと重なっていく。
「……」
今度は、ちゃんと目を閉じる。
呼吸が、整う。
小さな体の力が、抜けていく。
「……」
再び、眠りに落ちていく。
「……」
ザーラは、何も言わない。
ただ。
歩き続ける。
耳は、周囲の音を拾い続けている。
視線は、闇の奥を探っている。
足取りは、わずかに速いまま。
それでも。
「……」
腕の中の重みを、確かめるように。
ほんの少しだけ。
力を緩める。
守る、では足りない。
離さない。
その意識が、より強くなる。
「……」
遠くで、また何かが動く音。
風が、少し強くなる。
夜は、まだ長い。
森は、どこまでも続いている。
「……」
それでも。
腕の中の、小さなぬくもりが。
確かに、ここにある。
「……」
それだけで。
まだ、進める。




