第24話 連れていく
夜は、静かすぎるほど静かで、まるで音そのものが遠慮しているみたいに、家の中にはランプの火の揺れる気配だけが、かすかに残っていた。
「……」
ザーラは、机の前に座ったまま、何もしていなかった。
手は、道具の上に置かれているのに、動かない。
視線だけが、ゆっくりと、部屋の隅へと流れていく。
ルティが眠っている。
小さな体を丸めて、布にくるまりながら、スプーンをしっかりと握ったまま、規則正しい呼吸を繰り返している。
「……」
近づかない。
ただ、見ている。
「……」
昼の光景が、何度も、何度も、頭の中で繰り返される。
伸びてきた、小さな手。
ためらいのない、信じきった動き。
それを。
止めた。
「……触らないで」
自分の声が、まだ耳の奥に残っている。
冷たくて、逃げ場のない響きのまま。
「……」
目を閉じる。
あのときのルティの顔が、はっきりと浮かぶ。
意味がわからないまま、それでもちゃんと受け止めてしまった顔。
泣かずに、引き下がった顔。
「……」
小さく、息を吐く。
「……これでいい」
自分に言い聞かせるように、低くつぶやく。
近づけない。
関わらせない。
そうすれば。
守れる。
「……」
そのはずだった。
でも。
「……」
昼の“あれ”が、消えない。
ほんの一瞬。
触れただけで、変わった。
あの男の視線。
扉の奥へ、滑り込んでくるような目。
「……」
ゆっくりと、目を開ける。
理解してしまっている。
距離を取るだけでは、足りない。
隠すだけでも、足りない。
「……」
このまま続ければ。
いずれ、確実に。
見つかる。
偶然じゃなくなる。
噂になる。
形になる。
そして。
奪われる。
「……」
喉の奥が、かすかに軋む。
頭の中で、選択肢を並べる。
ここに残る。
隠し続ける。
ルティに触れさせない。
——無理だ。
人が来る。
また来る。
何度でも来る。
一度疑われたものは、消えない。
「……」
別の選択肢。
ルティだけを、どこかへ逃がす。
「……」
すぐに、否定する。
無理だ。
何も知らない。
何もわからない。
あの小さな手を、一人で外に出す?
「……」
ありえない。
「……」
では。
「……」
残るのは、一つだけ。
「……」
ゆっくりと、立ち上がる。
窓の外を見る。
暗い森が、静かに広がっている。
隠れる場所。
同時に、逃げるしかない場所。
「……」
背後で、気配が動く。
ミーナが、壁にもたれて立っていた。
起きていたらしい。
「……まだ起きてたの」
「寝れる空気じゃないでしょ」
小さく笑う。
「……」
短い沈黙。
「……決めた?」
ザーラは、すぐには答えない。
もう一度だけ、部屋の隅を見る。
眠っているルティ。
昼に、あの顔をした子ども。
「……」
そして。
「……連れていく」
静かに、言い切る。
ミーナの眉が、わずかに上がる。
「一緒に?」
「……そう」
「……あんたが?」
「……私しかいないでしょ」
少しの間。
ミーナが、ゆっくりとうなずく。
「……そっか」
それ以上、理由は聞かない。
「……いつ」
「……今夜」
「……早いね」
「……遅いくらいよ」
ザーラの声は、落ち着いているのに、その奥には焦りが隠しきれていない。
「……明日、また来る」
「……うん」
「次は、覗くだけじゃ済まない」
「……だろうね」
「……その前に、消える」
「……」
ミーナは、ふっと息を吐く。
「じゃあ、あたしは残るね」
「……お願い」
「時間、稼ぐよ」
軽く言う。
でも、その軽さは、覚悟を隠すためのものだとわかる。
「……悪いわね」
「ほんとだよ」
くすっと笑う。
「……頼む」
「任された」
短い言葉で、全部が決まる。
「……」
ザーラは、ルティの方へ歩いていく。
一歩、一歩。
さっきまでは、近づかなかった距離。
今は、迷わない。
しゃがむ。
「……」
小さな手。
スプーンを、まだ握っている。
「……」
昼の光景が、重なる。
その手を、拒んだ。
「……」
今度は、逃げない。
そっと、その上から手を重ねる。
あたたかい。
確かに、ここにいる。
「……ん」
ルティが、少しだけ身じろぎする。
目は開けないまま。
それでも。
その手が、ほんの少しだけ、ザーラの指を握り返す。
「……」
息が、止まりそうになる。
「……ごめん」
小さく、こぼれる。
昼のこと。
突き放したこと。
全部に対して。
「……」
聞こえていない。
それでも、言う。
「……今度は、離さない」
自分に言い聞かせるように。
ゆっくりと、体を持ち上げる。
軽い。
驚くほどに。
「……」
こんな重さで。
こんな小ささで。
守れると思っていたのかと、胸の奥がきしむ。
それでも。
しっかりと、抱き直す。
「……行くわよ」
誰にともなく。
でも、確かに。
ミーナが、静かに扉を開ける。
夜の空気が、流れ込む。
冷たくて、深い。
「気をつけて」
「……ええ」
「……絶対、戻ってきなよ」
「……そのつもり」
短いやり取り。
それで、十分だった。
「……」
ザーラは、一歩を踏み出す。
森の中へ。
腕の中のルティは、まだ眠っている。
スプーンを、握ったまま。
「……」
その小さな温もりを、確かめるように抱えながら。
ザーラは、歩き出す。
振り返らない。
振り返れば、迷いが戻るとわかっているから。
「……」
もう。
戻れないのではなく。
戻らないと、決めた。




