第22話 普通のふり
朝。
やわらかいはずの光が、今日はどこか薄く、部屋の中の輪郭だけを淡くなぞっているように感じられて——
「……」
ザーラは、いつもよりもずっと早い時間に目を覚まし、そのまま眠り直すこともできずに、静かに起き上がっていた。
手は、いつも通りに動いている。
葉を選び、刻み、並べ、道具の位置を整える。
けれど。
「……」
意識だけが、そこにない。
思考が、ひとつにまとまらず、細かく散って、何度も同じ場所に戻ってくる。
——あの視線。
——あの言葉。
——“また来る”。
「考えすぎ」
背中越しに、ミーナの声が軽く落ちる。
「……考えるでしょ」
短く返す声は、いつもよりも少しだけ乾いている。
「まあね」
ミーナは肩をすくめるように笑ってから、少しだけ声の調子を変える。
「でもさ、“普通にする”って決めたんでしょ?」
「……ええ」
「じゃあまず、その顔やめなよ」
「……」
「正直、かなり怖いって」
「……」
ザーラは、ほんの少しだけ目を伏せて、ゆっくりと息を吐く。
「……努力する」
「よろしい」
ミーナが、わざとらしくうなずく。
奥の部屋。
「……」
ルティは、もう起きていた。
小さな手の中に、いつものスプーンをしっかり握りしめて、じっと膝を抱えるように座っている。
「……」
今日は、なんとなくわかる。
空気が、違う。
音の響き方が、少しだけ違う。
ザーラの気配も、ほんの少しだけ、遠い。
「……いつもと、ちがう」
ぽつり、と自分に言うみたいにこぼす。
でも。
「……ザーラ、いる」
それを確かめるように、小さくうなずく。
それだけで、いい。
それだけで、まだ大丈夫だと思える。
「……おはよう」
ザーラが、部屋に入ってくる。
「……!」
ルティの顔が、ぱっと明るくなる。
「おはよ」
少しだけ声が弾む。
「……」
その反応を見て。
ザーラの中の張りつめていたものが、ほんのわずかに緩む。
朝ごはん。
「……ゆっくりね、ちゃんと噛みなさい」
「……うん」
こくん、と素直にうなずく。
今日は、本当にゆっくり。
一口ずつ、大事に食べる。
「……えらい」
「……!」
ぱあっと、うれしそうに笑う。
「よしよし、その調子その調子」
ミーナが、軽く笑いながら言う。
「……」
一見すれば、いつも通りの朝。
変わらない日常。
——のはずだった。
昼前。
コン。
その音は、小さかったのに、やけにくっきりと耳に残る。
三人とも、ぴたりと動きを止める。
「……」
ザーラとミーナの視線が、無言で交わる。
「……あたし出る」
ミーナが、声を潜めて言う。
「……お願い」
ミーナが扉へ向かう。
その背中を見ながら——
「……ルティ」
「……」
「今日は、ここにいなさい」
机の横、少し奥まった場所を指す。
「……うん」
こくん、としっかりうなずく。
「……いい子」
「……!」
少しだけ胸を張るみたいにして、スプーンをぎゅっと握る。
扉が開く。
「こんにちはー」
ミーナの、あえて明るくした声。
「……邪魔している」
低く、落ち着いた声。
昨日の男。
「……」
ルティの肩が、ぴくりと小さく震える。
「……」
ザーラは、すぐにそちらへ視線を向ける。
「……だいじょうぶ」
声には出さず、口の動きだけで伝える。
「……」
ルティは、その口の形をじっと見て。
「……うん」
小さく、うなずく。
そして、視線を落とす。
スプーン。
ぎゅっ。
「……」
ザーラは、何もなかったかのように作業を続ける。
“いつも通り”。
それを、壊さないように。
「薬を頼みたい」
外からの声。
「もちろんどうぞー、今日は天気いいですねぇ」
ミーナが軽く受け流す。
「……ああ」
会話が、続く。
表面だけは、穏やかに。
その裏で。
「……」
ザーラは、瓶を手に取り、すり鉢に材料を入れる。
ごり。
ごり。
一定のリズム。
乱さないように。
「……」
ルティは、じっと見ている。
やりたい。
まねしたい。
「……」
小さく、手が動く。
止まる。
「……いい?」
ほとんど音にならない声で、ザーラを見る。
「……」
一瞬だけ、目が合う。
その一瞬のあいだに、ザーラの中でいくつもの判断が走る。
——触れさせない方がいい。
——でも、止めれば不自然。
——いつも通りを、崩すな。
「……いい」
小さく、うなずく。
「……!」
ルティの顔が、ぱっと明るくなる。
そっと、手を伸ばす。
薬の近くへ。
「……」
指先が、ほんのわずかに触れる。
その瞬間。
「……」
ザーラの指が、止まる。
空気が、わずかに変わる。
目に見えないほど、ほんのわずかに。
外。
「……?」
男の声が、わずかに揺れる。
「どうかしたか」
「……いえ、なんでも」
ミーナが、すぐにかぶせる。
でも。
「……」
男の視線が、扉の奥へと、ゆっくり滑る。
「……」
ザーラは、即座に手を動かす。
ごり。
ごり。
何事もなかったかのように。
「……できたわ」
瓶に移す。
「……」
ルティは、満足そうに、その様子を見ている。
「……できた」
小さく、うれしそうにささやく。
でも。
「……」
ザーラの中では、もうはっきりしている。
また、変わった。
確実に。
「……どうぞ」
瓶を差し出す。
ミーナが受け取る。
「はーい、確かに」
「……」
男は、それを受け取りながら、じっと見つめる。
「……」
ほんの、わずかな沈黙。
「……また、違うな」
ぽつりと、落とされる言葉。
「……え?」
ミーナが、とぼける。
「いや」
「……気のせいじゃないですか?」
「……かもしれん」
そう言いながらも。
「……」
視線は、止まらない。
机。
手。
動き。
そして——
ルティ。
「……」
スプーンを握る、小さな手。
「……」
男の目が、わずかに細くなる。
「……その子」
空気が、張りつめる。
「……なに」
ミーナが、先に返す。
「……よく手伝うのか」
「見てるだけですよ」
即答。
「ね、かわいいでしょ?」
にこっと笑う。
「……」
男は、答えない。
ただ、もう一度だけ。
ルティを見る。
今度は、はっきりと。
測るように。
値踏みするように。
「……」
ザーラの指先が、わずかに強ばる。
ルティは。
その意味を知らないまま。
「……」
なんとなく、ざわざわして。
スプーンを、ぎゅっと握る。
「……ザーラ」
小さく、呼ぶ。
「……」
その声に、ザーラはほんの一瞬だけ視線を向ける。
「……だいじょうぶ」
口の形だけで、もう一度伝える。
「……うん」
小さく、うなずく。
男は、そのやり取りを見ていた。
何も言わずに。
「……世話になった」
立ち上がる。
帰っていく。
扉が閉まる。
「……」
沈黙。
長く、重い沈黙。
「……今の」
ミーナが、小さく言う。
「……見てたわね」
「……ええ」
ザーラは、ゆっくりと目を閉じる。
「……ギリギリだった」
「……うん」
「……」
そして、ゆっくりとルティへ視線を向ける。
小さな体。
何も知らない顔。
それでも。
確実に、“見られた”存在。
「……」
胸の奥で、何かが決定的に切り替わる。
もう、“隠せばなんとかなる段階”じゃない。
時間は、ない。
猶予も、ない。
「……」
ルティが、とことこと近づいてくる。
そして。
「……だいじょうぶ?」
不安そうに、見上げる。
「……」
ザーラは、その顔を見て。
ほんの一瞬だけ。
迷う。
逃がすか。
隠しきるか。
戦うか。
すべてが、現実の選択肢として、そこにある。
「……」
ルティが、スプーンを差し出す。
「……これ、あるよ」
小さく、言う。
何も知らないまま。
ただ、“いっしょにいる”ために。
「……」
ザーラの呼吸が、わずかに揺れる。
そして。
その小さな手を、強く、しかし壊さないように包み込む。
「……大丈夫」
今度は、はっきりと言う。
それは、ルティに向けてであり。
同時に、自分に向けた言葉でもあった。
「……」
もう、選ぶしかない。
守ると決めたなら。
すべてを使って、守り抜くしかない。
そのために。
何を捨てることになっても。




