第18話 いつもみたいで、少しだけ違う日
朝。
まだ少しだけひんやりとした空気の中に、やわらかくほどけるような光が、ゆっくりと差し込んで、部屋の隅々まで静かに広がっていく。
「……」
ルティが、先に目を覚ます。
重たいまぶたが、ゆっくりと持ち上がっていく。
「……」
となりを見る。
ザーラ。
静かな寝息を立てて、まだ眠っている。
「……」
その寝顔を、少しのあいだじっと見つめる。
それから——
なにかを思い出したように、小さく目を瞬かせる。
そっと、布団の中で体を起こす。
音を立てないように、慎重に。
ぺた、ぺた。
床に足をつけて、ひとつひとつ確かめるように歩く。
スプーンを探す。
「……」
視線が、あちこちをゆっくりとさまよう。
「……」
あった。
「……!」
小さく、でもはっきりと目が輝く。
ぎゅっ、と手に握る。
それだけで、少し安心したみたいに。
「……」
そのまま、扉の方へ向かう。
一歩。
また一歩。
手を伸ばして。
取っ手に触れる。
「……」
ほんの少しだけ、力を入れかけて——
止まる。
「……」
昨日のことが、ゆっくりと胸の奥に浮かぶ。
森の奥の、あの場所。
やわらかく揺れていた光。
呼ばれるような、あの不思議な感覚。
そして。
ザーラの声。
「……」
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
手を離す。
今日は、行かない。
「……」
自分に言い聞かせるみたいに、小さくこくんと頷く。
そのとき。
「……起きてるの」
後ろから、低く落ち着いた声。
「……!」
びくっ、と肩が小さく跳ねる。
振り向く。
ザーラ。
少しだけ眠気を残した顔。
けれど——
目は、しっかりとこちらを見ている。
「……どこ行くつもりだったの」
静かで、逃げ道を作らない声。
「……」
ルティは、少しだけ考える。
言葉を探しているみたいに、ほんの少し眉が寄る。
それから——
ゆっくりと、首を横に振る。
「……そう」
ザーラは、それ以上は追わない。
けれど。
「……」
ゆっくりと歩み寄ってきて。
そのまま、ぽん、と軽く頭に手を置く。
「……いい子」
静かに落ちるその一言。
「……!」
それだけで。
ルティの顔が、一瞬で明るくほどける。
朝ごはん。
いつもと変わらない、穏やかな時間。
「……」
ルティが、スプーンで食べる。
ぱく。
もぐ。
もぐ。
ひとつひとつ、確かめるように。
「……ゆっくり」
ザーラが、少しだけ低い声で言う。
「……」
ルティは、こくんと頷いて。
ほんの少しだけ意識して、ゆっくり食べる。
もぐ……もぐ。
ミーナも、いつの間にか来ている。
椅子にだらっと座りながら、パンをかじって。
「ねえ、今日さ」
軽い調子で話し出す。
「市場の日なんだよね」
「……」
ザーラの手が、ほんのわずかに止まる。
「たまには行く?」
気軽な問い。
けれど、その奥にあるものを、ザーラは見逃さない。
「……行かない」
間を置かずに、短く返す。
「えー」
ミーナが肩をすくめる。
「ルティちゃん、外見たいでしょ?」
「……」
ルティを見る。
「……」
ルティは、少しだけ考える。
視線が揺れて。
それから——
ザーラを見る。
その目は、まっすぐで。
迷いがなくて。
「……」
スプーンを、ぎゅっと握る。
「……行かない」
小さく。
でも、確かにそう言う。
「……」
ミーナが、ほんの少しだけ驚いた顔をする。
「そっか」
それ以上は、何も言わない。
「……」
ザーラは何も言わないまま、ほんのわずかに肩の力を抜く。
「じゃあお土産買ってくるわ」
ミーナが立ち上がる。
「甘いやつね」
「……!」
ルティの目が、ぱっと輝く。
「はいはい、わかりやすい」
くすっと笑いながら、手を振って出ていく。
扉が閉まり、静かになる。
「……」
ルティが、ザーラを見る。
少しだけ考えて。
とことこ、と歩いていく。
そして。
服の端を、きゅっとつかむ。
「……なに」
ザーラが見下ろす。
「……」
何も言わない。
ただ、つかむ。
「……」
ザーラは、その小さな手を少しだけ見つめてから。
「……離れなくていいわ」
ぽつりと、許すように言う。
「……!」
ルティは、嬉しそうに小さくうなずく。
そのまま。
ぴったりとくっつく。
昼。
掃除のお手伝い。
「……」
ごし。
ごし。
丁寧に、ゆっくりと床をこする。
今日は、うまくいく。
手の動きが、しっかりしている。
「……」
ちら、とザーラを見る。
「……」
ちゃんと見ている。
逃さない視線で。
「……えらい」
「……!」
その一言で。
顔が、ぱあっと花みたいにほどける。
そのとき。
コン、と。
小さな音が、外から響く。
「……」
ザーラの手が、ぴたりと止まる。
「……?」
ルティも、動きを止める。
「……」
ザーラは、ゆっくりと視線を扉へ向ける。
風の音。葉の揺れる気配。
それだけ。
「……」
何もない……それでも。
「……続けなさい」
ほんのわずかな間を置いて、言う。
「……」
ルティは、こくんと頷いて。
また、掃除に戻る。
ごし。
ごし。
でも。
ザーラの視線は、しばらくのあいだ。
扉から、離れなかった。
夕方。
「ただいまー!」
明るい声と一緒に、ミーナが戻ってくる。
「はい、お土産!」
差し出されたのは、小さなパイ。
甘い匂いが、やわらかく広がる。
「……!」
ルティの目が、きらきらと輝く。
「ほら、前好きそうだったでしょ」
「……」
ルティは、そっと受け取る。
両手で、大事そうに。
少しだけ迷って。
ザーラを見る。
それから。
「……あー」
小さく口を開ける。
「……は?」
ザーラが、ぴたりと固まる。
「ちょっと! それやるの!?」
ミーナが笑いをこらえきれない。
「……」
ルティは、じっと見ている。
真剣な顔で。
“いっしょに食べる”という、まっすぐな気持ちで。
「……」
ザーラは、ほんの一瞬だけ目を細めて。
「……一口だけよ」
「……!」
ぱああっと、顔が明るくなる。
小さくちぎって。
そっと差し出す。
「……」
ほんの少しだけためらってから、食べる。
「……」
甘い、やさしい味。
「……」
ルティが、じっと見ている。
「……おいしいわよ」
ぽつりと、言う。
「……!」
満足そうに、何度も頷いて。
自分もぱくっと食べる。
外は、静かだった。
風も、光も、音も。
何も変わらない。
いつも通りの一日。
笑って。
食べて。
くっついて。
ほめられて。
でも。
扉の向こう。
森の奥。
見えない場所で。
「……」
何かが、ゆっくりと形を持ち始めている。
まだ触れていないのに。
まだ名前もないのに。
確実に。
こちらへと、近づいていた。




