第17話 噂の行き先
森の外れ。
木々が少しだけ途切れて、空が広く見える、小さく開けた場所。
そこには、木こりや狩人たちが、仕事の合間に腰を下ろすための、簡素な小屋が建っている。
昼過ぎ。
乾いた木の匂いと、土の湿り気が混じった空気の中で。
「……でさ」
例の男が、ぽつりと、まるで独り言の続きを誰かに預けるように口を開いた。
自分の腕に巻かれた包帯を、指先で軽く叩きながら。
「昨日の傷、もう引いた」
「は?」
向かいに座っていた男が、ゆっくり顔を上げる。
「……早すぎないか、それ」
「だよな」
短く笑う。
軽く、受け流すような声音。
けれど——
その笑いは、ほんの少しだけ乾いている。
「……薬が効いた」
「誰のだ」
「森の奥の、あの女」
「ああ……」
一瞬、間が落ちる。
互いに顔を見合わせるでもなく、ただ空気だけが、少しだけ意味を持つ。
「……変わり者の?」
「それ」
「……あそこ、腕は確かだろ」
横から、別の男が口を挟む。
「前から効くって話はあったしな」
「いや、それにしてもだ」
例の男は、包帯をほどく。
布がほどけていく音が、やけに静かに響く。
露わになる傷口。
「……」
ほとんど、塞がっている。
赤みは薄れ、腫れも引いている。
昨日のものとは、思えない。
その瞬間。
場の空気が、ほんのわずかに変わる。
「……偶然だろ」
誰かが言う。
あえて、軽くするような口調で。
「たまたま軽かったとか、そういう」
「……かもな」
答えながらも。
例の男の視線が、ほんの少しだけ揺れる。
「……でもさ」
ぽつり、と続ける。
「子どもがいた」
「子ども?」
「ああ。小さいやつ」
「へえ」
興味の薄い返事。
いつもなら、そこで話は終わるはずの、どうでもいい情報。
けれど。
「……ずっと見てた」
「……それが?」
「……いや」
言葉を選ぶように、少しだけ間を置く。
「……なんでもない」
本当は。
気になっている。
あの瞬間。
薬を当てたとき。
視線が、絡みつくみたいに残った。
ただの子どもにしては——
「……」
小さく首を振る。
考えを振り払うように。
「考えすぎか」
そのとき。
「面白い話をしているな」
新しい声が、静かに割って入る。
落ち着いていて、よく通る声。
それだけで、場の空気の質が変わる。
全員が、自然とそちらを見る。
入り口に立っていたのは、一人の男。
整った身なり。
この森には、明らかに似つかわしくない、きちんとした服装。
「……あんた」
誰かが、小さくつぶやく。
この辺りでは、知らない者はいない。
狩猟の許可や、森の管理に関わる——
いわば、“上”にいる人間。
「……ただの噂話だ」
例の男が、短く切る。
それ以上広げる気はない、という意志を込めて。
「大したことじゃない」
「そうか?」
その男は、ゆっくりと中へ入る。
靴音が、妙に整っている。
視線が、自然に——
包帯の外れた腕へと向く。
「……ずいぶん、きれいに治っているな」
「……」
空気が、わずかに張り詰める。
「薬だ」
短く答える。
「森の奥の女の」
「……ほう」
その一言に、確かな興味が宿る。
「前から評判は聞いていたが」
ゆっくりとした口調。
言葉の端々に、測るような間がある。
「そこまでとはな」
「……たまたまだ」
「そうかもしれないな」
否定はしない。
だが、納得もしていない。
そして。
「……子どもがいると言ったか?」
まるで、何気ない確認のように続ける。
「……」
一瞬だけ、沈黙が落ちる。
「……いる」
短く。
余計な情報を削ぎ落とした返答。
「どんな子だ」
「……小さい。よくわからん」
「……そうか」
それ以上は、深く聞かない。
けれど。
「……一度、顔を見てみたいものだな」
小さく、しかし確実に残る声で、そう呟く。
「……」
誰も、何も言わない。
ただ。
その場にいる全員が、なんとなく理解してしまう。
今の話は。
もう、自分たちの手の届く範囲のものではない。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
“上”に行った。
その頃。
森の家。
「……」
ザーラは、窓辺に立ち、外の森をじっと見つめていた。
風が通る。
木々が揺れる。
葉が擦れ合う音が、いつも通りに響く。
何も変わらない景色。
それなのに。
「……」
胸の奥が、わずかにざわつく。
理由は、わからない。
確かな根拠もない。
けれど。
「……」
ゆっくりと視線を落とす。
ルティがいる。
床にちょこんと座って。
スプーンを握って。
「……」
なにやら真剣な顔で、すりこぎの真似をしている。
ごり。
……ごり。
(音はしない)
「……」
途中で、ふと止まる。
「……?」
首をかしげる。
もう一回。
ごり。
……ごり。
「……!」
小さく、うなずく。
できた気がしてる。
それから。
スプーンを、そっと床に置いて。
「……」
両手で、見えない何かをすくうみたいにして。
空の瓶に、“さらさら”って入れる真似をする。
「……」
入ったつもり。
それを、きゅっと抱える。
「……!」
そして、満足そうに、にこっと笑う。
完全に、“できた顔”。
「……」
ザーラは、それを見て。
ほんの一瞬だけ。
表情をやわらげる。
けれど。
次の瞬間には。
「……」
目が、わずかに細くなる。
⸻
守らなければならないものと。
隠さなければならないものが。
同じ場所に、ある。
「……」
ルティは、そんなことは何も知らない。
ただ。
スプーンを拾って。
とことこと歩いてきて。
「……」
ザーラの服の端を、きゅっとつかむ。
見上げる。
「……」
何も言わない。
でも。
“いっしょ”
って顔をしている。
「……」
ザーラは、ほんのわずかに息を止める。
それから。
そっと、その小さな手の上に、自分の手を重ねる。
逃がさないように。
確かめるように。
「……今日は、外に出ないで」
静かに言う。
「……?」
ルティは、首をかしげる。
でも。
「……」
すぐに、こくん、と頷く。
理由はわからない。
でも。
言われたから……それで、十分。
「……」
その無邪気さが。
ひどく、危うい。
「……来るかもしれないわね」
小さく、誰にも聞こえない声で呟く。
それは。
確信に近い、予感だった。




