第16話 守る理由
夜。
ランプの火が、小さく、けれど確かに生き物のように揺れていて、部屋の影をゆっくりと伸ばしたり縮めたりしている。
「……」
ザーラは、その揺れる灯りの下で、一人きり、静かに椅子に腰を下ろしていた。
机の上には、昼間とまったく同じ薬の材料が並んでいる。
乾いた葉。
細い根。
使い慣れたすり鉢と、手に馴染んだすりこぎ。
「……」
変わったものなんて、どこにもない。
それなのに——
変わってしまったものが、ひとつだけある。
それを、“どう見るか”。
それだけが、決定的に違ってしまっていた。
「……偶然じゃないわね」
小さく、しかしはっきりと、自分に言い聞かせるように呟く。
もう否定はしない。
できないところまで、来てしまっている。
ごり。
ごり。
いつも通りの手順で、いつも通りの力加減で、葉をすり潰す。
音も、感触も、すべて同じ。
「……」
それでも。
何も起きない。
「……やっぱり、そう」
わかっている。
もう、はっきりと。
ゆっくりと、視線が奥の部屋へと向く。
扉の向こう。
小さな寝息。
規則正しく、安心しきった呼吸。
「……」
あの子が、いる。
昼間の会話が、静かに蘇る。
——この子、関係ある?
「……あるに決まってるでしょう」
低く、押し殺すように吐き出す。
あの光。
あの効き方。
あの、揺らぎのない結果。
全部が、繋がっている。
「……」
手を止める。
すりこぎが、音もなく止まる。
考える。
もし、知られたら。
ただの“よく効く薬”じゃ済まなくなる。
原因を探られる。
突き止められる。
そして——
それが、“あの子”だと知られたら。
「……」
胸の奥が、わずかに冷える。
求められる。
試される。
囲われる。
奪われる。
利用される。
「……」
ゆっくりと、目を閉じる。
かすかな記憶が、浮かぶ。
冷たい視線。
値踏みするような目。
選ばれるものと、捨てられるもの。
声も、意思も、関係なく。
ただ“価値”だけで決められる世界。
「……」
小さく、息を吐く。
その息は、どこか固く、冷えている。
「……同じにさせるか」
低く、静かに、しかし揺るぎなく言い切る。
あの子は、違う。
“使われる側”なんかに、絶対にしない。
「……」
目を開ける。
その瞳には、迷いがない。
「……知られないようにする」
それだけでいい。
それだけで、全部足りる。
ランプの火が、ふっと大きく揺れる。
「……そのためなら」
言葉は、途中で止まる。
口にはしない。
でも。
その先にある覚悟は、もう固まっている。
翌日。
空はよく晴れていて、森の緑がやけに鮮やかに見える。
「ザーラ、いるか」
低く、抑えた声が扉の向こうから響く。
「……」
ザーラの指が、ぴたりと止まる。
ほんの一瞬だけ、空気が張り詰める。
この声。
「……珍しい人が来たわね」
何事もなかったように立ち上がるが、その動きはほんのわずかに慎重になる。
扉を開ける。
そこに立っていたのは——
森の外れの集落で狩りをしている男。
無口で、必要以上に人と関わらない。
「……どうしたの」
「……薬を」
短い言葉。
腕の中には、包み。
中を確認する。
傷。
深くはないが、赤く腫れ、膿みかけている。
「……これくらいなら、すぐ治る」
いつも通りの声。
揺れはない。
「……頼む」
「……座って」
手早く準備を進める。
動きに迷いはない。
その間。
「……」
ルティは、少し離れた場所に、ちょこんと座っている。
両手で、スプーンをぎゅっと握りしめながら。
「……」
じーっと見ている。
真剣な顔。
でも、どこかきらきらしている。
「……」
ザーラは、一瞬だけ迷う。
この程度の傷なら。
普通の薬でいい。
時間はかかるが、問題なく治る。
「……」
けれど。
男の顔が、わずかに歪む。
痛みをこらえている。
「……」
視線が、ほんの一瞬だけ——
ルティへと向く。
ルティと、目が合う。
「……!」
ぴしっと背筋が伸びる。
なぜか、急に“がんばる顔”になる。
スプーン、ぎゅううっと握り直す。
(てつだう……!)
言葉には出ないけれど、そんな気配が全身から溢れている。
「……」
ザーラは、ほんのわずかに目を細める。
——混ざる。
意識していなくても。
関わっているだけで。
「……これ使う」
瓶を手に取る。
昨日と同じ薬。
水に溶かす。
ゆっくりと。
その間。
ルティは——
じっと見ているだけ。
でも。
「……」
スプーンを胸の前で、ぎゅっと抱きしめるみたいに持っている。
小さく、こくん、と一度うなずく。
まるで。
「だいじょうぶ」って、自分で自分に言い聞かせるみたいに。
「……」
ザーラは、それを見逃さない。
男の傷に、薬を当てる。
静かな時間。
「……」
男の表情が、わずかに変わる。
「……?」
眉が、ぴくりと動く。
「……どうしたの」
「……痛みが、引いた」
低く、確かめるような声。
「……そう」
平静を保つ。
「……早いな」
ぽつり、と漏れる。
「……そんなものよ」
即座に返す。
けれど。
男の視線が、ゆっくりと動く。
薬。
ザーラの手。
そして——
ルティ。
「……」
スプーンを握ったまま、じっとこちらを見ている小さな子ども。
その瞬間。
ルティが、にこっと笑う。
なんの警戒もない。
ただ、「見てたよ」「できたね」って言いたげな、無邪気な笑顔。
「……!」
しかも、小さく拍手までしようとして——
スプーン持ってるから、片手だけぱち、って鳴って、ちょっと失敗する。
「……」
きょとん。
もう一回やろうとして、やっぱりうまく鳴らない。
それでも。
にこにこしてる。
「……」
男は、何も言わない。
でも。
その目が、ほんの一瞬だけ。
“測るように”細くなる。
空気が、ほんのわずかに変わる。
ザーラは、それを見逃さない。
「……もういいわ」
さっと動いて、薬を片付ける。
会話を切る。
流れを断つ。
「今日は安静に」
「……ああ」
男は立ち上がり、扉へ向かう。
その途中で。
「……その子」
足が止まる。
ザーラの背筋が、わずかに強ばる。
「……何」
「……手伝ってるのか」
一拍も置かず。
「……見てるだけよ」
即答。
「……そうか」
それ以上は、何も言わない。
扉が閉まる。
静寂。
「……」
ザーラは、しばらく動かない。
やがて。
ゆっくりと、息を吐く。
“まだ”だ。
けれど。
「……時間の問題ね」
心の中で、静かにそう結論づける。
視線を、ルティへ向ける。
「……!」
目が合うと、ぱあっと笑う。
とことこと近づいてきて。
「……」
何も言わずに。
服の端を、きゅっとつかむ。
見上げる。
——ほめて?
そんな顔。
「……」
ザーラは、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
そして。
「……えらいわ」
小さく言う。
「……!」
ぱああっと顔が明るくなる。
その場で、ぴょこん、と小さく跳ねる。
スプーン、ぶんぶん振る。
ちょっと危ない。
「……落とすわよ」
「……!」
ぴたりと止まる。
ぎゅっと持ち直す。
「……」
その様子に、胸の奥が少しだけ締めつけられる。
こんなにも無防備で。
こんなにも無邪気で。
何も知らない。
だからこそ。
「……」
ザーラは、そっとその頭に手を置く。
やわらかい髪。あたたかい体温。
その手に、ほんの少しだけ力がこもる。
離さない、という意思みたいに。
「……」
守る理由は、もう十分すぎるほどあった。




