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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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『境界に眠る光』スピンオフ  ― 焼きたての温度 ―  第9話 1人で行かないで

その夜、白樺亭は妙に静かだった。


 外では風が鳴っている。


 昼間よりずっと強い風だ。


 窓の隙間を撫でるたび、ひゅう、と細い音が響く。


 暖炉には火が入っている。


 それなのに。


 食堂の空気は、どこか冷えていた。


「……変ね」


 ミーシャが眉を寄せる。


 厨房でスープを温めていたバルドが顔を上げた。


「何がだ」


「火、こんなに入ってるのに寒いのよ」


 バルドは黙って暖炉を見る。


 赤い火はちゃんと燃えている。


 なのに、空気の奥にじっとりした冷たさが残っていた。


 その時だった。


「っ……ぁ……」


 二階から、苦しそうな声が落ちてきた。


 ミーシャの顔色が変わる。


「……ルティ!?」


 椅子を鳴らして立ち上がる。


 バルドも同時に顔を上げた。


 次の瞬間には、二人とも階段を駆け上がっていた。


 乱暴に扉を開ける。


「……っ!」


 ミーシャが息を呑む。


 寒い。


 部屋へ入った瞬間、肌が粟立った。


 窓は閉まっている。


 暖炉の火も消えていない。


 なのに。


 部屋の空気だけが、異様に冷たい。


 冬の寒さじゃない。


 もっと湿った、底のない冷たさだった。


「ルティちゃん!」


 ベッドの上で、ルティが苦しそうに身体を縮めている。


 浅い呼吸を繰り返しながら、左腕を押さえていた。


「っ……は、ぁ……」


 様子がおかしい。


 熱を出した時の苦しみ方じゃない。


 まるで何かに押し潰されているみたいだった。


 ミーシャが駆け寄る。


 触れた瞬間、ぞっとした。


 熱い。


 なのに冷たい。


 意味が分からない。


 肌は焼けるみたいに熱を持っているのに、その奥に氷みたいな冷たさがある。


「バルド……!」


 声が震える。


 こんなの、見たことがない。


 バルドがルティの左腕を見る。


 痣が、淡い紫を帯びて脈打っていた。


 どくん。


 どくん。


 まるで、生き物みたいに。


「……やばいな」


 低い声だった。


 その瞬間。


 ルティが苦しそうに目を開ける。


 薄紫の瞳が、ゆっくり窓の向こうを見る。


 東。


 境界のある方角。


「……いる」


 ぞわり、と空気が震えた気がした。


 次の瞬間。


 暖炉の火が、ぶわ、と大きく揺れる。


「っ……!」


 ミーシャが反射的にルティを抱き寄せる。


 寒い。


 どんどん寒くなる。


 息が白くなるほどだった。


「……バルド」


 ルティが、小さく呟く。


「いくの……?」


 バルドは窓の外を見たまま答えない。


 でも。


 ミーシャには分かってしまった。


 この人は行く。


 放っておけない人だから。


 誰かが苦しんでいたら、自分が危なくても動いてしまう人だから。


 バルドが上着へ手を伸ばす。


 その瞬間。


「だめ!」


 気づけば、ミーシャは叫んでいた。


 部屋が静まり返る。


 バルドが振り返る。


 ミーシャは自分でも驚いていた。


 こんな強い声が出るなんて思わなかった。


「……一人で行く気?」


「様子見るだけだ」


「駄目よ」


「放っとけねえだろ」


 珍しく強い声だった。


 ミーシャが息を呑む。


 バルドは眉を寄せたまま、東の方を見ている。


 その横顔が、妙に苦しそうに見えた。


「また誰か倒れたらどうする」


 低い声。


「何か起きてからじゃ遅え」


 ミーシャの胸が痛くなる。


 この人も怖いんだ。


 失うことが。


 だから無茶をする。


「でも……!」


 言葉が詰まる。


 行かないで。


 失いたくない。


 そう叫びたかった。


 でも、喉が震えてうまく声にならない。


 その時だった。


 ぎゅ、と服の裾を掴まれる。


 ルティだった。


 苦しそうな呼吸のまま、小さく首を振っている。


「……ひとり、だめ」


 掠れた声だった。


 ルティは震える指で、バルドの服を掴んだまま、もう一度小さく呟く。


「……いっしょ」


 その一言が、部屋の空気を変えた。


 バルドが動きを止める。


 しばらく沈黙が落ちた。


 風の音だけが聞こえる。


 その時だった。


 廊下を駆ける足音が響く。


 次の瞬間、扉が勢いよく開いた。


「ルティ!」


 飛び込んできたのはガイルだった。


 いつもの落ち着いた顔が、わずかに険しい。


 ルティの様子を見た瞬間、表情が変わる。


「……っ、痣が進んでる」


 低い声だった。


 ガイルはすぐベッドの傍へ来ると、ルティの左腕を見た。


 その目が鋭く細まる。


「境界が近いな」


 ミーシャの肩が揺れる。


「……どういうことなの」


「説明してる暇はねえ」


 ガイルは窓の外を見る。


 東の空。


 そこだけが、夜の闇より深く見えた。


「バルド」


「ああ」


「一人で行くな」


 短い言葉だった。


 でも。


 バルドは小さく息を吐くと、ゆっくり頷いた。


「……分かってる」


 その声を聞いた瞬間。


 ミーシャの身体から、張り詰めていた力が抜けそうになった。


 怖かった。


 本当に。


 ルティが苦しんでいることも。


 境界が近づいていることも。


 全部怖い。


 でも、それ以上に。


 また誰かが、自分の手の届かない場所へ行ってしまうことが。


 怖かった。


「……ミーシャ」


 低い声に顔を上げる。


 バルドだった。


「そんな顔すんな」


 ぶっきらぼうに言う。


 でも、その声は不思議なくらい優しかった。


「ちゃんと戻る」


 胸が、どくりと鳴る。


 ミーシャは息を呑んだ。


 その一言だけで。


 凍りつきそうだった胸の奥へ、熱が戻ってくる。


 ああ、と。


 ミーシャは思ってしまう。


 多分、自分はもう。


 この人が帰ってくる場所になってほしいと、願い始めている。

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