『境界に眠る光』スピンオフ ― 焼きたての温度 ― 第10話 白樺亭に灯る
最終話
「白樺亭に灯る」
東の風が止んだのは、夜明け前だった。
まるで、何かが遠ざかっていくみたいに。
白樺亭を包んでいた冷たい空気が、少しずつほどけていく。
それでも。
ミーシャの胸のざわつきだけは、消えなかった。
「……」
窓の外は、まだ暗い。
どれくらい時間が経ったのか、もう分からない。
ルティはようやく眠った。
苦しそうだった呼吸も、少し落ち着いている。
ガイルも部屋の隅で目を閉じていた。
けれど。
バルドだけが、まだ戻っていなかった。
「……」
落ち着かない。
窓の外で風が鳴るたび、足音がした気がして顔を上げる。
廊下が軋むたび、扉を見る。
違うと分かるたび、胸の奥が少し冷える。
馬鹿みたいだ、とミーシャは思った。
たった数時間戻ってこないだけだ。
今までも、こんなことはいくらでもあった。
なのに。
今夜は駄目だった。
目を閉じるたび、思い出してしまう。
『ちゃんと戻る』
低い声。
あの時の顔。
もし戻らなかったらどうしよう、と考えてしまうたび、呼吸が浅くなる。
その時だった。
――ぎぃ。
階下で、扉の開く音がした。
「……!」
ミーシャの肩が跳ねる。
一瞬、呼吸が止まった。
心臓が、どくん、と嫌なくらい大きく鳴る。
違ったらどうしよう、と先に思ってしまう自分が嫌だった。
でも身体は勝手に動いていた。
椅子を鳴らして立ち上がる。
気づけば、もう部屋を飛び出していた。
階段を駆け下りる。
冷たい空気。
まだ薄暗い食堂。
そして。
入口の前に、バルドが立っていた。
「……っ」
栗色の髪に、うっすら夜露が滲んでいる。
肩へ掛かった外套には冷たい空気が染みついていて、長い時間外にいたことが分かった。
少し疲れた顔をしている。
それでも。
こちらを見る瞳は、ちゃんといつもの色をしていた。
その瞬間。
ミーシャの胸の奥で、張り詰めていたものが崩れそうになる。
戻ってきた。
本当に。
ちゃんと。
バルドが何か言いかける。
「お前……」
そこで言葉が止まった。
眉を寄せたまま、じっとミーシャの顔を見ている。
「……何よ」
「いや」
バルドは少し困ったように息を吐く。
「そんな顔するほど心配してたのかと思ってな」
ミーシャは一瞬だけ黙る。
誤魔化そうとして。
でも、うまく笑えなかった。
「……するわよ」
小さな声だった。
「心配、するに決まってるじゃない」
その瞬間。
今度はバルドの方が黙った。
珍しく言葉に詰まったみたいに、視線を逸らす。
「……お前な」
低い声。
けれど、どこか落ち着かない響きだった。
逸らした横顔の耳が、うっすら赤い。
ミーシャは目を瞬く。
――あ。
照れてる。
そう気づいた瞬間、胸の奥がふわりと熱くなる。
バルドは誤魔化すみたいに小さく息を吐いた。
「寝てねえだろ」
「……寝られなかったの」
素直に零れた声だった。
「それで?」
ミーシャは少しだけ表情を整える。
「東は、どうだったの」
バルドはゆっくり外套を脱ぎながら答えた。
「静かになってた」
「……そう」
「完全に消えたわけじゃねえと思う」
低い声だった。
「でも、今は引いてる」
ミーシャは小さく頷いた。
そのまま、ゆっくり窓の外へ視線を向ける。
東の空は、薄く朝焼けに滲み始めていた。
夜の名残みたいな青が、少しずつ白んでいく。
さっきまで白樺亭を包んでいた冷たい気配も、今はもう遠い。
完全に消えたわけじゃない。
きっとこれから先も。
境界はそこにある。
怖いものも、失うかもしれない不安も、なくなったりはしない。
それでも。
暗い夜の向こうから、
ちゃんと帰ってくる足音があるだけで。
凍えていた胸の奥へ、また灯りが戻ってくる気がした。
その時。
とたとたと小さな足音が聞こえてくる。
「……バルド」
眠そうな声だった。
ルティが、毛布を引きずるみたいに抱えたまま、階段の途中へ立っている。
「起きてきたのか」
バルドが呆れた声を出す。
ルティはぼんやりした顔のまま、バルドを見る。
それから、小さく呟いた。
「……バルド、いた」
一瞬。
バルドが目を瞬いた。
そのあと、ふっと表情が緩む。
「ああ」
短い返事。
でも、それだけで十分だった。
ミーシャの胸が静かに熱くなる。
その空気を壊すみたいに、入口の扉が勢いよく開いた。
「パン焼けたー!?」
ミコだった。
朝一番から元気すぎる。
「まだよ!」
「えー!」
食堂へ声が響く。
その後ろから、眠そうなシェリーも顔を出した。
「朝から元気ねぇ……」
「お腹すいた!」
「知ってるわよ」
白樺亭に、少しずついつもの声が戻ってくる。
暖炉の火。
パンの匂い。
人の気配。
ミーシャは、その真ん中で小さく息を吐いた。
すると。
ふわり、と肩へ何かが掛かる。
「……え?」
振り向く。
バルドだった。
自分の上着を、ミーシャの肩へ掛けている。
「まだ冷えるぞ」
低い声。
近い距離。
ミーシャの胸が、また静かに鳴る。
「……ありがとう」
今度は、ちゃんと素直に言えた。
バルドは少しだけ目を丸くする。
まるで、そんなふうに礼を言われると思っていなかったみたいに。
それから。
「……今日はやけに素直だな」
呆れたみたいに言って、小さく笑った。
からかうような声音なのに、不思議と優しい。
ミーシャは思わず眉を寄せる。
「悪かったわね」
「いや」
バルドは肩を竦める。
「そっちの方がいい」
その一言に。
胸が、また静かに熱くなる。
暖炉の火が、ぱちりと音を立てた。
白樺亭の中には、いつもの匂いが戻っている。
焼きたてのパン。
温かいスープ。
誰かの声。
誰かの笑い声。
きっとこれから先も。
境界は消えない。
怖い夜も、失うかもしれない不安も、なくなったりはしない。
それでも。
冷え切った夜のあとに、
こうして同じ朝を迎えられることが。
帰ってきた人の声を聞けることが。
こんなにも温かいのだと。
ミーシャは、初めて知った。
その時。
肩へ掛けられていた上着が、ふっと引き寄せられる。
「風邪引くぞ」
低い声。
気づけば、バルドがすぐ隣に立っていた。
近い。
思ったよりずっと。
ミーシャの心臓が、不意に大きく跳ねる。
「……近いわよ」
「寒いって言ってただろ」
「それは……そうだけど」
言葉がうまく続かない。
バルドはそんなミーシャを見て、少しだけ目を細めた。
その顔が、妙にずるいと思った。
胸の奥が、また熱くなる。
多分。
これはまだ、“恋”とは少し違う。
でもきっと。
いつか名前がつく。
そんな予感だけは、もう消えなかった。
白樺亭の灯りは、
今日も静かに、そこにあった。




