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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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『境界に眠る光』スピンオフ  ― 焼きたての温度 ―  第8話 行かないで、とは言えない

白樺亭には、少しずついつもの朝が戻ってきていた。


 暖炉の火。


 焼きたてのパンの匂い。


 旅人たちの話し声。


 忙しなく動く足音。


 数日前までの重苦しい空気が、嘘みたいだった。


 もちろん、不安が消えたわけじゃない。


 ルティの痣はまだ残っている。


 東側の冷たい気配も、完全には消えていない。


 それでも、人は日常へ戻ろうとする。


 白樺亭も同じだった。


「ミーシャー!」


 入口の扉が開く。


 ミコが勢いよく飛び込んできた。


「パン!」


「開口一番それ?」


「だってお腹すいた」


「はいはい」


 ミーシャは焼き上がった丸パンを紙へ包む。


 その横では、バルドが木箱を運んでいた。


「おじちゃん今日こわい顔してる」


「いつもだ」


「今日はもっと」


「気のせいだ」


 バルドはそう言いながらも、窓の外をちらりと見た。


 東側。


 境界のある方角だった。


 ミーシャはその視線に気づく。


「……何かあった?」


「朝、東門の近くで馬が暴れたらしい」


「馬?」


「荷運びの連中が騒いでた」


 ミコの顔から笑みが消える。


「……ざわざわ?」


 バルドは答えない。


 でも否定もしなかった。


 白樺亭の空気が少し静かになる。


 その時。


 階段の途中から、小さな声が落ちた。


「……バルド」


 ルティだった。


 まだ本調子ではないのか、少し眠たそうな顔をしている。


 けれど、その薄紫の瞳だけは妙に冴えていた。


「……いっちゃ、だめ」


 ミーシャの心臓が小さく跳ねる。


 バルドは眉を寄せた。


「まだ行くって言ってねえぞ」


「でも、いく」


 ルティは静かに言う。


 まるで分かっているみたいに。


 バルドは小さく息を吐いた。


「様子見るだけだ」


「だめ」


 即答だった。


 その声に、部屋の空気が少し張る。


 ミーシャは無意識に指先を握った。


 胸の奥が、妙に冷たい。


「一人で行くの?」


 気づけば、そんな言葉が出ていた。


 バルドがこちらを見る。


「すぐ戻る」


「でも……」


 言葉が止まる。


 行かないで。


 そう言いそうになって、自分で驚いた。


 何を言おうとしてるんだろう。


 ただ東門の様子を見に行くだけだ。


 危険だと決まったわけじゃない。


 なのに。


 胸の奥が、妙にざわつく。


「ミーシャ?」


 バルドが不思議そうにこちらを見る。


 ミーシャははっとした。


「……気をつけてね」


「おう」


 バルドはあっさり頷くと、そのまま入口へ向かった。


 扉が閉まる。


 ミーシャはなんとなく、その扉を見つめる。


「……しんぱい?」


 ミコが下から顔を覗き込んできた。


「え?」


「おじちゃんのこと」


「そ、そんなんじゃないわよ」


「でもずっと扉見てた」


「見てない」


「見てた」


 にやにや笑うミコへ、ミーシャは小さく眉を寄せる。


「……パン減らすわよ」


「えー!」


 ミコはわざとらしく声を上げた。


「ひどーい」


 その声に、少しだけ空気が緩む。


 でも。


 胸の奥のざわつきは消えなかった。


 それから、一時間ほど経った頃だった。


 扉が開く。


 冷たい風が入り込む。


 ミーシャは反射的に顔を上げた。


「……バルド!」


 戻ってきた。


 それだけで、胸の奥が強く緩む。


 けれど次の瞬間、ミーシャは眉を寄せた。


「……その手」


 右手の甲に、浅い切り傷が走っていた。


 血はもう止まりかけている。


「木に引っかけただけだ」


「どこで?」


「東門の外」


 その瞬間、ルティがぴくりと反応した。


 薄紫の瞳が、じっと傷を見る。


「……つめたい」


 ぽつり。


 ミーシャの背筋へ嫌な寒気が走る。


「ちょっと、こっち来て」


「大げさだな」


「うるさい」


 ミーシャは半ば強引にバルドを椅子へ座らせた。


 水と布を持ってくる。


 傷自体は浅い。


 でも。


 どうしてか、放っておけなかった。


「だから平気だって」


「平気じゃなかったら困るのよ」


 思ったより強い声が出た。


 バルドが少しだけ目を瞬く。


 ミーシャは傷口を拭きながら、唇を噛んだ。


 自分でも分かってしまった。


 怖かったのだ。


 もし、この人までいなくなったら。


 そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなるくらいに。


「……心配するわよ」


 ぽつりと零れる。


「そういうの」


 部屋が静かになった。


 ミコまで黙っている。


 バルドはすぐには何も言わなかった。


 その代わり、傷口を拭くミーシャの手元をじっと見ている。


 ミーシャはその視線に気づいて、少しだけ肩を強張らせた。


 近い。


 こんな距離で向かい合っているだけなのに、妙に落ち着かない。


 傷の手当てをしているだけ。


 それだけのはずなのに。


 心臓が変にうるさかった。


 やがて。


 バルドが小さく息を吐く。


「……悪かった」


 低い声だった。


 いつものぶっきらぼうな言い方なのに。


 その声は、驚くほど素直に聞こえた。


 ミーシャの指先が止まる。


 この人は、多分。


 簡単には謝らない。


 自分のことを後回しにするし、多少の怪我なんて気にも留めない。


 なのに今。


 ちゃんと“心配をかけた”ことに対して謝った。


 それがどうしてか、胸の奥へまっすぐ落ちてくる。


「……わかればいいの」


 なんとかそう返す。


 でも声が少しだけ掠れてしまった。


 バルドがこちらを見る。


 真っ直ぐな目だった。


 からかうでもなく、誤魔化すでもなく。


 ただ静かに、ミーシャを見ている。


 その視線に、胸がどくりと鳴った。


 ――ああ。


 ミーシャは気づいてしまう。


 自分は、多分。


 もう、とっくに。


 この人が無事に戻ってくるだけで、こんなに安心してしまうくらいには。


 バルドのことを、大事に思い始めている。

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