『境界に眠る光』スピンオフ ― 焼きたての温度 ― 第7話 同じ夜を知っている
夜の白樺亭は静かだった。
最後の客も部屋へ戻り、一階の食堂には暖炉の火だけが残っている。
木の焼ける音。
揺れる橙色の灯り。
窓の外では、冷たい風が細く鳴いていた。
ミーシャは二階の様子を見終え、階段をゆっくり降りる。
旅人の熱はだいぶ落ち着いていた。
まだ油断はできないけれど、少なくとも昨夜みたいな切迫した空気ではない。
「……よかった」
ぽつりと呟く。
それだけで、身体の奥に張り詰めていたものが少し緩んだ。
一階へ降りると、暖炉の前にバルドがいた。
椅子へ浅く腰掛け、片肘をつきながら火を眺めている。
その姿を見た瞬間、不思議と肩の力が抜けた。
「まだ起きてたのね」
「お前こそ」
バルドが顔を上げる。
「もう少し寝とけ」
「寝られるほど暇じゃないのよ」
「十分ふらふらしてるぞ」
「してないわ」
「してる」
即答だった。
ミーシャは苦笑しながら、暖炉の向かい側へ腰を下ろす。
火がぱちりと爆ぜた。
夜の白樺亭は不思議だ。
昼間みたいに賑やかなわけじゃない。
誰かが喋っているわけでもない。
なのに、この場所にいると独りぼっちの感じがしなかった。
「……ルティちゃん、寝てた?」
ミーシャが聞く。
「ああ。さっき水飲んでまた寝た」
「熱は?」
「少し落ち着いてる」
ミーシャは小さく息を吐いた。
「よかった……」
「お前の方が顔色悪いが」
「誰のせいかしらね」
「知らねえな」
絶対少し分かってる顔だった。
ミーシャは思わず笑う。
こうして話していると、昨夜の緊張が少しずつ遠ざかっていく気がした。
その時。
ぎし、と階段が鳴る。
二人が同時に振り返った。
ルティだった。
淡い金髪が暖炉の灯りを受けて柔らかく光っている。
まだ少し眠そうな顔のまま、ゆっくり降りてきた。
「ルティちゃん!?」
「また降りてきたのか」
バルドが呆れた声を出す。
ルティは小さく頷いた。
「……みず、のむ」
「言うと思った」
バルドは立ち上がると、そのまま棚から木杯を取った。
「ほら」
「……ありがと」
ルティは両手で木杯を受け取る。
暖炉の前へ来ると、そのままぺたんと床へ座り込んだ。
「おい、床は冷えるぞ」
「……あったかい」
「暖炉の前だからな」
ルティはこくりと頷き、少しずつ水を飲む。
その姿を見ながら、ミーシャはふと昨夜を思い出した。
この子だって怖かったはずだ。
それでも最後まで静かだった。
泣きも騒ぎもしないで、ただ“違う”と言った。
ルティは木杯を抱えたまま、暖炉の火を見つめていた。
それから、ぽつりと呟く。
「……バルドも、さむかった」
ミーシャが顔を上げる。
バルドは少しだけ眉を寄せた。
「何がだ」
「きのう」
ルティは静かな紫の瞳で、まっすぐバルドを見る。
「……こわかった?」
暖炉の火が、小さく爆ぜた。
部屋が静かになる。
ミーシャは無意識に息を止めた。
バルドはすぐには答えない。
暖炉を見つめたまま、しばらく黙っている。
その横顔を見て、ミーシャは初めて気づいた。
この人は、ただ強いわけじゃない。
怖さを知らない人の強さじゃない。
一度痛みを知って、それでも立っている人の静けさだ。
やがてバルドは、小さく息を吐いた。
「……まあな」
それだけだった。
詳しくは言わない。
何があったのかも。
誰を失ったのかも。
でも、その短い声だけで十分だった。
ミーシャの胸が静かに痛む。
この人も同じなんだ。
一人残される夜を知っている。
だから。
無理に励まさない。
何も聞かない。
ただ、隣にいる。
ルティは静かに瞬きをした。
それから、小さく頷く。
「……おなじ」
ぽつり。
その言葉に、バルドが少しだけ目を細めた。
暖炉の火が静かに揺れる。
外では、まだ風が鳴っていた。
境界の気配も、完全には消えていない。
それでも今、この暖かな灯りの中にいると。
痛みを知っている人同士は、きっと。
言葉がなくても、少しだけ分かり合えるのかもしれないと、ミーシャは思った。




