『境界に眠る光』スピンオフ ― 焼きたての温度 ― 第6話 隣にいるひと
朝の白樺亭は、いつもより少し静かだった。
昨夜の騒ぎが尾を引いているのか、食堂に集まる旅人たちの声もどこか控えめだ。
窓の外では市場の準備が始まっている。
荷車の音。
遠くの呼び声。
焼きたてのパンの匂い。
町はいつも通り朝を迎えているのに、白樺亭の中だけがまだ夜の疲れを引きずっていた。
ミーシャはカウンターの内側で、木杯を一つずつ拭いていた。
眠い。
昨夜は結局ほとんど寝ていない。
旅人の熱が少し落ち着いたあと、暖炉の前へ座ったところまでは覚えている。
でも次に目を開けた時には、毛布が掛けられていた。
誰が掛けたのかなんて、考えるまでもなかった。
「……」
思い出した瞬間、妙に落ち着かなくなる。
木杯を拭く手が少しだけ速くなった。
その時。
入口の扉が勢いよく開いた。
「ミーシャー!」
元気な声と一緒に、ミコが飛び込んでくる。
肩で息をしながら食堂を見回し、そのままカウンターまで駆け寄ってきた。
「……ねむそう」
「誰のせいかしらねぇ」
ミーシャが苦笑する。
ミコは「えへへ」と全く反省のない顔で笑った。
その少し奥、厨房との境目あたりでは、バルドが水を飲んでいた。
彼も昨夜ほとんど眠っていないはずなのに、相変わらず顔色一つ変わらない。
ミコはそんなバルドをちらっと見たあと、急に声を潜めた。
「ねえ」
「ん?」
「あの人、生きてる?」
昨夜倒れた旅人のことだ。
ミーシャは木杯を置きながら、小さく笑った。
「生きてるわよ。熱も少し下がったわ」
その瞬間、ミコの顔がぱっと明るくなる。
「よかったぁ……」
本気で心配していたらしい。
ミーシャが少しだけ表情を緩めた、その時だった。
「おじちゃん、昨日ミーシャにやさしかった」
ミコが何気なく言った。
奥で水を飲んでいたバルドが盛大にむせる。
「ぶっ、ごほっ……!」
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
ミーシャが思わず声を上げる。
ミコはきょとんとしていた。
「え、なんで?」
「お前のせいだ!」
「だってほんとじゃん」
ミコは悪気なく続ける。
「ずっとミーシャの隣いたし」
ミーシャの動きがぴたりと止まる。
「あと、倒れそうになった時も支えてた」
「……っ」
昨夜、肩を掴まれた感触が蘇った。
『まだ生きてる』
低い声が耳の奥へ蘇る。
あの時、自分は確かに引き戻された。
過去じゃなく、“今”へ。
「……やさしかった」
ぽつり。
静かな声が落ちた。
振り返ると、ルティが階段の途中へ座っていた。
淡い金髪が朝の光を受けて柔らかく揺れている。
薄紫の瞳が、ぼんやりバルドを見ていた。
「ルティちゃんまで!?」
バルドが珍しく狼狽える。
ミコはすぐににやにやし始めた。
「おじちゃん照れてる」
「照れてねえ」
「赤い」
「暖炉だ」
「今、火ついてないよ」
痛いところを突かれて、バルドが言葉に詰まる。
その顔がおかしくて、ミーシャは思わず吹き出した。
笑った瞬間、自分で少し驚く。
昨夜は、あんなに怖かったのに。
まだ不安だって消えていない。
それなのに今、自分はちゃんと笑えている。
ふと顔を上げる。
バルドと目が合った。
いつもの無愛想な顔。
でも、その目だけが少しだけ緩んだ気がした。
胸の奥が変に熱くなる。
ミーシャは慌てて視線を逸らした。
「……あ、朝ご飯の準備しなきゃ」
「話逸らした」
「逸らしてないわよ」
「逸らした」
ミコが面白そうにじっと見てくる。
完全に遊ばれていた。
その時。
ルティがふと窓の外を見た。
静かな横顔。
けれど薄紫の瞳だけが、じっと東の方を見つめている。
「……ルティちゃん?」
ミーシャが声をかける。
ルティは少しだけ瞬きをした。
それから。
「……まだ、いる」
ぽつりと呟く。
部屋の空気が静かに止まった。
ミコの顔から笑みが消える。
「……ざわざわ?」
ルティは小さく頷いた。
「きのうより、ちかい」
窓の外では、ノールバザールの朝がいつも通り動き始めている。
市場の声。
荷車の音。
パンの匂い。
何も変わらない朝。
なのに、東の空だけがどこか冷たく見えた。
ミーシャは無意識に指先を握る。
その時。
背後から、ぽん、と軽く肩を叩かれた。
「顔」
バルドだった。
「また怖え顔してるぞ」
ぶっきらぼうな声。
でも、その一言だけで張り詰めていた呼吸が少しだけ戻る。
ミーシャは小さく息を吐いた。
「……してた?」
「してた」
「ひどいわね」
「事実だ」
バルドはそれだけ言って、厨房の方へ戻っていく。
広い背中だった。
無愛想で、口も悪くて。
なのに、どうしてこんなに安心するんだろう。
ミーシャは無意識に、自分の指先を握り込む。
怖さは消えていない。
東の空はまだ冷たいままだ。
ルティの言葉も、胸の奥へ重く残っている。
それでも。
もしまた何かが起きても。
今度は、一人で立たなくていい気がした。




