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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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『境界に眠る光』スピンオフ  ― 焼きたての温度 ―  第5話 呼び戻す声

三番部屋の空気は、ひどく息苦しかった。


 暖炉を焚いているはずなのに、どこか冷えている気がする。


 熱を持つ旅人の荒い呼吸が、小さな部屋へ不規則に響いていた。


 ミーシャは濡れ布を絞りながら、小さく息を飲む。


 熱が高い。


 嫌になるほど、高い。


 額へ触れた瞬間に蘇る感覚があった。


 熱に浮かされた皮膚の熱さ。


 浅い呼吸。


 掠れた声。


 ――あの日と同じだ。


「……みず」


 旅人が苦しそうに呻く。


 その瞬間。


 ミーシャの手が止まった。


 心臓が嫌な音を立てる。


 昔も、そうだった。


『みず』


 熱に浮かされた声で、彼は何度もそう言った。


 冷たい水を欲しがって。


 苦しそうに息をして。


 それでも最後まで、「大丈夫」と笑っていた。


 ミーシャは唇を噛む。


 駄目だ。


 今は思い出している場合じゃない。


 分かっているのに、身体がうまく動かない。


「ミーシャ」


 低い声が落ちる。


 バルドだった。


 旅人の身体を支えながら、真っ直ぐこちらを見ている。


「布」


「あ……」


 返事が遅れる。


 指先が震える。


 視界の奥で、昔の光景がちらついた。


 熱。


 咳。


 苦しそうな呼吸。


 助けられなかった人。


 その時だった。


 旅人が大きく咳き込む。


「っ、ぁ……!」


 肩が激しく上下する。


 呼吸が乱れ、苦しそうに喉を鳴らした。


 ミーシャの頭が真っ白になる。


 布が、指の間から滑り落ちた。


 もう駄目だと思った。


 また間に合わない。


 また失う。


 そう思った瞬間。


 ぐい、と肩を掴まれた。


「こっち見ろ」


 低い声だった。


 怒鳴っていない。


 でも、逃がさない声だった。


 ミーシャは息を呑む。


 目の前に、バルドがいる。


 揺れていない目だった。


「……違う」


 静かな声が落ちる。


「え……」


「まだ生きてる」


 その言葉に、胸の奥を強く殴られた気がした。


 昔とは違う。


 まだ終わっていない。


 バルドは旅人を支えたまま、ミーシャから目を逸らさなかった。


「お前しか分かんねえんだろ」


 低い声。


「だったら逃げんな」


 厳しい言葉だった。


 でも、不思議と怖くない。


 責められている感じがしなかった。


 立たされている。


 崩れそうになる自分を、無理やり前へ戻されている。


 ミーシャは震える息を飲み込む。


 もう一度、旅人を見る。


 熱は高い。


 呼吸も苦しそうだ。


 でも。


 まだ、生きている。


「……水、替えます」


 震える声で言う。


 今度は動けた。


 ミーシャは布を絞り直し、旅人の額へ当てる。


 呼吸を確認する。


 脈を測る。


 頭の奥に埋もれていた知識が、少しずつ戻ってきた。


「……ミーシャ」


 小さな声。


 振り返ると、ルティが入口へ寄りかかるように立っていた。


 淡い金髪が暖炉の火を受けて柔らかく揺れている。


 薄紫の瞳は、じっと旅人を見つめていた。


「ルティちゃん、まだ起きて……」


「……へんな、ねつ」


 ぽつり。


 ルティは小さく胸元を押さえる。


「さむい」


「寒い?」


「このひとじゃない」


 ミーシャは目を見開いた。


 ルティは旅人ではなく、その向こう側を見るみたいに窓の外へ視線を向けている。


「もっと、むこう」


 東。


 境界のある方向だった。


 部屋の空気が一瞬だけ冷えた気がした。


 ミーシャの背筋を、嫌な寒気が走る。


 けれど。


「今はこいつ優先だ」


 バルドの声が落ちる。


 短く、静かな声だった。


 それだけで、不思議と呼吸が戻る。


「……はい」


 ミーシャは小さく頷いた。


 怖い。


 本当は、ずっと怖い。


 また同じことになるんじゃないかと、胸の奥が叫び続けている。


 でも。


 隣には、バルドがいた。


 慌てない。


 騒がない。


 ただ、必要なことを迷わずやる。


 その背中が、ひどく頼もしかった。


 やがて。


 長かった呼吸が、少しだけ落ち着く。


 旅人の肩の上下が、ほんのわずかに緩やかになった。


 ミーシャはそこで初めて、自分がずっと息を止めていたことに気づく。


「……下がってる」


 額へ触れたまま、小さく呟く。


 熱が、少しだけ落ちていた。


 その瞬間、全身から力が抜けそうになった。


「おい」


 身体が傾く前に、腕を支えられる。


 バルドだった。


「今度はお前が倒れる気か」


 呆れた声。


 でも、その手はしっかりしている。


 ミーシャはようやく、小さく笑った。


「……かもしれません」


「馬鹿」


 短く言って、バルドは近くの椅子を足で引き寄せた。


「座れ」


 逆らう気力もなく、ミーシャはそのまま腰を下ろす。


 すると少しして、湯気の立つ木杯が目の前へ置かれた。


「飲め」


「……ありがとうございます」


「倒れられると面倒だ」


 いつものぶっきらぼうな言い方。


 なのに今は、その声がひどく安心する。


 ミーシャは木杯を両手で包み込む。


 じんわりと熱が指先へ戻ってくる。


 ふと横を見る。


 バルドは窓の外を見ながら、静かに腕を組んでいた。


 何も言わない。


 でも、そこにいる。


 それだけで。


 胸の奥で凍りついていたものが、少しずつ溶けていく気がした。

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