『境界に眠る光』スピンオフ ― 焼きたての温度 ― 第4話 熱のちがい
夜の白樺亭は、昼間とは別の建物みたいだった。
食堂の灯りは半分ほど落とされ、暖炉の火だけが静かに揺れている。遅い夕食を取る旅人も、もう数人しか残っていない。
外ではまだ風が鳴っている。
春が近づいているとはいえ、夜気はまだ冷たい。
「……ミーシャ」
低い声に振り返ると、鍋を覗き込んでいたバルドが眉を寄せていた。
「スープ、もう残り少ねえぞ」
「あ、ほんとだ」
ミーシャは慌てて鍋へ近寄る。
今日だけで何度作り直したか分からない。昨夜から隊商の客が増えたせいで、白樺亭は朝からずっと慌ただしかった。
「少し薄めます?」
「いや、もう客減るだろ」
「ですね」
そう返しながらも、ミーシャの視線は無意識に入口の方へ向いてしまう。
昼間から続く、あの妙なざわつき。
ミコとルティが言っていた、“変な感じ”。
考えすぎだと思いたいのに、胸の奥から離れてくれない。
その時だった。
食堂の奥で、がたん、と大きな音が響いた。
椅子が倒れる。
短い呻き声。
「っ、おい!」
旅人の一人が床へ崩れ落ちていた。
ミーシャは反射的に駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
男の額へ触れた瞬間、息が止まった。
熱い。
異様なほど。
男は浅く荒い呼吸を繰り返し、汗で濡れた髪が額へ張り付いている。指先は小さく震え、焦点の合わない目が虚ろに揺れていた。
「水!」
気づけば叫んでいた。
バルドが即座に動く。
周囲の旅人たちもざわめき始めた。
「なんだ?」
「酔ったのか?」
「熱じゃねえか?」
違う。
ただの熱じゃない。
ミーシャの背筋を、嫌な冷たさが走った。
昔も、最初はこうだった。
急な高熱。
浅い呼吸。
寒気。
『すぐ下がる』
みんなそう言っていた。
大丈夫だと笑っていた。
けれど。
「ミーシャ」
低い声が落ちる。
はっと顔を上げると、バルドが水桶を持ったまま真っ直ぐこちらを見ていた。
「戻れ」
短い一言。
その声で、止まりかけていた呼吸が戻る。
「……っ、二階、空いてますか」
「三番」
「運びます!」
「俺が持つ」
迷いがなかった。
バルドは男を軽々と抱え上げる。重たいはずなのに、動きに一切ぶれがない。
「ミーシャ、水と布」
「はい!」
その瞬間だけ、白樺亭は宿屋ではなくなった。
水音。
走る足音。
旅人たちのざわめき。
暖炉の火が不安定に揺れる。
ミーシャは濡れ布を絞りながら、自分の手が震えていることに気づいた。
嫌だった。
思い出す。
どうしても。
熱に浮かされた顔。
苦しそうな呼吸。
冷えていく指先。
助けられなかった人。
「ミーシャ」
また呼ばれる。
今度は少し近い声だった。
「水は俺がやる。お前は熱見ろ」
バルドは男の身体を支えたまま言う。
その声は静かだった。
怒鳴らない。
慌てない。
ただ必要なことを、迷わず口にする。
ミーシャは唇を噛む。
それから小さく頷いた。
「……はい」
呼吸を整える。
大丈夫。
今はまだ。
まだ、あの時じゃない。
男の額へ布を当てた、その時だった。
「……ちがう」
小さな声が聞こえた。
振り返る。
部屋の入口に、ルティが立っていた。
淡い金髪が暖炉の火を受けて柔らかく光っている。寝間着のまま、小さく扉を握りながら、薄紫の瞳で男をじっと見つめていた。
「ルティちゃん!?」
「寝てろって言っただろ」
バルドが眉を寄せる。
けれどルティは動かなかった。
静かな目のまま、ぽつりと呟く。
「……このねつ、へん」
ミーシャの心臓が大きく鳴る。
「へん……?」
聞き返すと、ルティは少しだけ眉を寄せた。
「ふつうの、ねつとちがう」
すぐには続けない。
何かを探すみたいに、ゆっくり視線を動かしている。
それから。
「……さむい」
小さく呟いた。
「さむい?」
「うしろが」
薄紫の瞳が、男の向こう側を見る。
まるで熱そのものではなく、別の何かを感じ取っているみたいだった。
「ここと、ちがう」
ルティは小さく首を振る。
「もっと、むこう」
東。
境界のある方向。
ミーシャの指先から血の気が引いていく。
昔読んだ記録が頭を過った。
――境界熱患者は、境界側へ引かれるような反応を見せる場合がある。
「……まさか」
喉が乾く。
その時、ぐら、と視界が揺れた。
「っ」
ミーシャの身体が傾く。
その腕を、大きな手が支えた。
「立てるか」
バルドだった。
低い声。
いつも通りの、不器用な声。
でも、その手は驚くほどしっかりしている。
ミーシャは一瞬、言葉を失った。
怖かった。
ずっと。
また失うかもしれないことが。
一人で向き合うことが。
でも今。
隣には、この人がいる。
「……はい」
震えそうになる声を押し込める。
バルドはミーシャを見たまま、静かに言った。
「お前の知ってること、全部使え」
「……え?」
「助けたいんだろ」
胸が詰まる。
否定されると思っていた。
考えすぎだと笑われると思っていた。
なのに、この人は一度もそう言わない。
「俺は運ぶ」
バルドは男の身体を支え直す。
「必要なもん言え」
その声は、ひどく落ち着いていた。
大丈夫だと。
言葉にしないまま伝えてくる声だった。
ミーシャはゆっくり息を吸う。
震えていた指先へ、少しずつ力が戻っていく。
「……冷たい水、もっと必要です」
「分かった」
「あと、熱を下げる薬草を」
「倉庫か」
「はい」
「取ってくる」
迷いなく動き出す背中を見て、ミーシャは初めて、自分が一人じゃないと思えた。
ルティは静かに旅人を見つめている。
薄紫の瞳が暖炉の火を映して、小さく揺れていた。
部屋の中には、熱を持つ旅人の荒い呼吸が響いている。
それでも、さっきまでとは違った。
恐怖だけだった空気の中に、ほんの少しだけ。
誰かと並んで立てる温度が、確かに混じり始めていた。




