『境界に眠る光』スピンオフ ― 焼きたての温度 ― 第3話 火の残る時間
夕方になる頃には、白樺亭もようやく少し静かになっていた。
最後の旅人へ食事を出し終え、ミーシャは小さく息を吐く。
窓の外は薄暗い藍色だった。
市場通りの喧騒も遠くなり、代わりに、夜の冷たい空気が町へ降り始めている。
「ミーシャー!」
入口の方から声。
見ると、ミコが丸パンを抱えて立っていた。
「帰るの?」
「うん!」
「気をつけて帰るんですよ」
「はーい!」
元気よく返事をして。
でも帰る前に、ミコは少しだけ振り返った。
「……ルティちゃん、まだねむそうだった」
ぽつり。
昼間より小さな声。
ミーシャは少しだけ笑う。
「今日は早く寝かせます」
「うん」
ミコは頷いた。
けれどその深緑の目は、少し不安そうだった。
「またね!」
今度はいつもの声。
ぱたぱたと駆けていく足音が、夜の町へ消えていく。
白樺亭の扉が閉まる。
静けさが戻った。
「……さて」
ミーシャは空いた皿を重ねる。
洗い場にはまだ食器が残っていた。
暖炉の火も見ないといけない。
パンの仕込みも途中だ。
やることはいくらでもある。
なのに。
頭のどこかが、ずっと落ち着かなかった。
咳をした旅人。
ルティの熱。
ミコの“ざわざわする”という言葉。
全部が胸の奥へ引っかかっている。
――考えすぎ。
そう思う。
思いたい。
昔とは違う。
あれは、もう終わったことだ。
そう何度も言い聞かせてきた。
それなのに。
「……また」
小さく漏れる。
また、失うのではないか。
その考えが浮かぶだけで、胸の奥が冷たくなる。
あの日もそうだった。
最初は、小さな熱だった。
『すぐ治るよ』
彼は笑っていた。
熱があるのに、平気な顔をして。
自分を安心させるみたいに。
ミーシャはその顔を、今でも忘れられない。
忘れられないまま、二十九歳になってしまった。
「ミーシャ」
低い声に、肩が揺れる。
振り返ると、バルドがいた。
「まだ片付いてねえのか」
「あと少しです」
「残りやっとく」
「え?」
バルドは無言で皿を持っていく。
ミーシャは少し目を丸くした。
「……珍しいですね」
「客多かったからな」
「でもバルドさん、こういうの嫌いじゃないですか」
「嫌いだぞ」
「じゃあなんでです?」
「見てて危なっかしい」
さらっと言う。
ミーシャは言葉を失った。
バルドは気づいていないみたいに、水桶へ皿を入れていく。
「今日ずっと変だったぞ、お前」
「……そんなこと」
「ある」
即答だった。
ミーシャは苦笑する。
「鋭いですね」
「分かりやすいだけだ」
その返しが、少しだけ悔しい。
でも。
不思議と嫌じゃなかった。
誰にも気づかれないようにしていた。
普通に笑って。
普通に働いて。
昔のことなんて、もう終わった顔をして。
それなのに。
この人は時々、妙に簡単に見抜く。
「……昔を思い出してました」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
自分でも驚く。
バルドは手を止めない。
ただ、静かに聞いていた。
「昔?」
「境界熱が流行った時のことです」
暖炉の火が、小さく鳴る。
「助けたい人がいたんです」
言葉にすると、胸が痛かった。
「でも、助けられなかった」
それだけだった。
長く話すつもりはなかった。
なのに喉の奥が少し熱い。
「……ルティちゃん見てると、時々思い出すんです」
無理をするところ。
平気な顔をするところ。
周りを安心させようとするところ。
「また同じことになったらって、考えてしまって」
情けないな、と笑おうとした。
でもうまく笑えなかった。
しばらく沈黙が落ちる。
皿を洗う水音だけが響いていた。
やがて。
「なら、見とけ」
低い声。
ミーシャは顔を上げた。
バルドは相変わらず、ぶっきらぼうな顔をしている。
「気になるなら見とけばいい」
「……」
「気づけるもんがあるなら、見逃すな」
不器用な言い方だった。
慰めでもない。
優しい言葉でもない。
でも。
その声は妙にまっすぐだった。
「一人で抱え込むな」
ぽつり。
ミーシャの呼吸が止まる。
暖炉の火が揺れる。
白樺亭の夜は静かだった。
その静けさの中で。
ミーシャは、自分の胸の奥が少しだけほどけるのを感じていた。




