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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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『境界に眠る光』スピンオフ  ― 焼きたての温度 ―  第2話 あの日に似た空気

昼前の白樺亭は、朝よりもっと騒がしかった。


 一階の食堂では、旅人たちが遅い朝食を囲んでいる。


 皿のぶつかる音。


 スープの湯気。


 焼きたてのパンを割る音。


 昨夜入ってきた隊商の客で、今日は朝から満室だった。


「ミーシャ、水なくなってるぞ」


「はーい!」


 返事をしながら、ミーシャは空いた木杯を抱え直した。


 二階へ水を運び。


 戻ってきたら食器を下げ。


 今度はパン籠を補充する。


 朝からずっと動きっぱなしだ。


「忙しそー」


 入口近くの席で、ミコが頬杖をついた。


「そう思うなら手伝ってくれる?」


「丸パン一個でいい?」


「安いなぁ」


「二個でもいいよ」


「増えてる」


 ミーシャが笑う。


 ミコは今日もう三回目だった。


 学校は午前だけらしい。


 本当かどうかは少し怪しい。


「お前、家帰れ」


 鍋をかき混ぜながら、バルドが言う。


「やだ」


「即答すんな」


「だってここ好きだもん」


「宿屋好きなガキとか初めて見たぞ」


「パンあるし」


「結局それか」


 呆れた声。


 でも追い出しはしない。


 ミコもそれを分かっていて、勝手に椅子へ座っている。


 下町育ちらしい遠慮のなさだった。


 その時。


 二階から、小さく床が鳴った。


 ぎし。


 ミコが顔を上げる。


 階段の上に、小さな影が見えた。


 ルティだった。


 淡い金髪が肩から流れ落ちている。


 窓から差し込む昼前の光を受けて、柔らかく透けて見えた。


 薄紫の瞳が、ぼんやり下を見ている。


「……おはよ」


 ぽつり。


 静かな声。


「あ、ルティちゃん!」


 ミコが嬉しそうに手を振る。


 ルティは少し遅れて、小さく振り返した。


「もう昼ですよ」


 ミーシャが苦笑する。


 ルティは数秒考えてから。


「……じゃあ、こんにちは?」


 真面目に言う。


 ミコが吹き出した。


「変なの!」


「へん?」


「へん」


 ルティは不思議そうに瞬きをした。


 本気で分かっていない顔だった。


 そのまま階段をゆっくり降りてくる。


 ふらついているわけではない。


 でも、いつもより少し動きが遅い。


 ミーシャはすぐ気づいた。


 熱が高いわけじゃない。


 ただ。


 どこか、静かすぎる。


「まだ寝てろって言っただろ」


 バルドが眉を寄せる。


「……でも、おきた」


「起きたからって降りてくんな」


「しごと」


「今日はなし」


 ルティは少し黙る。


 それから。


「……てつだい、したい」


 ぽつ。


 静かな声だった。


 ミーシャは少しだけ視線を落とす。


 ルティはいつもこうだ。


 無理をしている自覚が薄い。


 誰かの役に立ちたい気持ちが先に来る。


 それが危なっかしい。


「座れ」


 バルドが近くの椅子を軽く引く。


 言い方は雑なのに、動作だけ妙に自然だった。


 ルティは素直に座る。


「……ありがと」


「スープ飲むか」


「のむ」


「ミーシャ」


「はいはい」


 ミーシャは厨房へ向かう。


 鍋からスープをよそいながら、少しだけ息を吐いた。


 こういう光景を見ると、不思議と胸が苦しくなる時がある。


 誰かを気にかける声。


 無理を叱る声。


 熱を出した人へ向ける、当たり前の優しさ。


 昔も。


 最初はこんなふうだった。


『すぐ治る』


『大丈夫』


 みんな、そう思っていた。


 湯気が揺れる。


 ミーシャは一瞬だけ目を閉じた。


「ミーシャ?」


 呼ばれて顔を上げる。


 ルティだった。


 椅子に座ったまま、こちらを見ている。


 薄紫の瞳が静かに瞬いた。


「……かお、しろい」


「え?」


「だいじょうぶ?」


 ミーシャは慌てて笑った。


「私は平気ですよ」


 ルティはじっと見ている。


 まるで何かを探すみたいな目だった。


 その隣で。


 ミコも、少しだけ眉を寄せていた。


「……ねえ」


「ん?」


 ミコは小声になる。


「まだ、へんな感じする」


 食堂の空気が、少しだけ静かになった気がした。


 旅人たちの笑い声。


 食器の音。


 暖炉の火。


 その全部の奥に、別の何かが混じっている。


 ミコは胸元を押さえた。


「東のほう」


 ルティもゆっくり窓の外を見る。


 町外れ。


 境界へ続く道の方向だった。


「……うん」


 小さく頷く。


「ざわざわ、する」


 ミーシャの指先が止まる。


 胸の奥が冷えていく。


 思い出したくない記憶が、静かに浮かび上がってきた。


 寒気。


 熱。


 浅い呼吸。


 眠れない夜。


 助けたかった人。


 助けられなかった人。


「……ミーシャ」


 低い声。


 気づけば、バルドがこちらを見ていた。


「本当に大丈夫か」


 ぶっきらぼうな声だった。


 でも、その視線は真っ直ぐだった。


 ミーシャは少しだけ目を逸らす。


「……大丈夫です」


 そう答えた声は、自分でも驚くほど小さかった。

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