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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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『境界に眠る光』スピンオフ  ― 焼きたての温度 ― 第1話 毎朝の声

★知り合いに「恋愛、書かないの?」と聞かれたので、頑張りました。

全部で10話のスピンオフです。


※時系列は、第二部の第42話以降の、ルティ療養中~出発までに起こった出来事という設定。


恋愛脳ではないので、恋愛未満。

これが限界です。(汗) 読んでいただけると私がとっても喜びます。はい。

このスピンオフだけでも楽しんでいただけるようにしたつもりです。よろしくお願いします。




朝のノールバザールの街は、まだ薄青かった。


 夜明けの冷気が石畳に残り、通りには昨夜の雨が細く光っている。


 市場通りでは、魚屋が木箱を運び、八百屋が眠たそうに野菜籠を並べ始めていた。


 遠くでは、隊商の馬が低く鳴いている。


 昨夜、東門から大きな隊商が入ったらしい。


 そのせいで、町は朝から少し慌ただしかった。


 そんな静かな空気を突き破るように。


「おじちゃーん! パンちょうだーい!」


 元気な声が通りに響いた。


 二階窓のそばにいた小鳥が、ばさりと飛び立つ。


 少しして。


 白樺亭の裏口が乱暴に開いた。


「朝からうるせえぞ、ミコ」


 低い声と一緒に現れたのは、バルドだった。


 無精髭。


 眠そうな目。


 片手には、まだ拭き途中の木皿。


 いかにも寝起きの顔だ。


 ミコは全く気にせず胸を張る。


「だって焼けてる匂いするもん」


「開店前だ」


「でもお腹すいた」


「知らねえ」


「冷たい」


 言いながら、全然帰る気はない。


 バルドも追い返さない。


 完全にいつものやり取りだった。


 ミコは白樺亭の入口を覗き込む。


 肩につくくらいの黒髪。


 艶のある真っ直ぐな髪が、朝の光を静かに反射していた。


 右側につけた銀色の髪飾りが、小さく揺れる。


 雪の結晶を模した北方風の細工だった。


「今日は丸パンある?」


「ある」


「やった!」


「まだ並べてねえ」


「待つ!」


 九歳にしては少し背が高い。


 けれど表情はころころ変わり、感情がそのまま声に出る。


 下町育ちらしい、遠慮のない明るさだった。


「おはよう、ミコちゃん」


 店の奥から、ミーシャが顔を出す。


「あ、ミーシャ!」


 ぱっと笑顔になる。


 ミコはそのまま中へ入ろうとして。


「靴」


「あ」


 言われて止まった。


 泥のついた靴裏を見下ろし、渋々入口で足を拭く。


「えらいえらい」


「子供扱いした」


「子供でしょう?」


「もう九歳!」


「はいはい」


 ミーシャは笑いながら、焼き上がったパン籠を作業台へ置いた。


 ふわりと小麦の香りが広がる。


 白樺亭は、旅人向けの小さな宿屋兼食堂だった。


 一階は食堂。


 二階は宿部屋。


 朝になれば、焼きたてのパンとスープの匂いが建物いっぱいに広がる。


 昨夜の隊商のせいで、今日は朝から満室だった。


 廊下では旅人の足音が響き、知らない声がいくつも聞こえる。


「三番の部屋、水置いとけ」


 奥からバルドの声。


「はーい」


 ミーシャは返事をしながら、机に開かれた帳簿へ目を落とした。


 宿代の記録。


 食材の数。


 空き部屋の確認。


 朝の白樺亭は、いつも戦場みたいに忙しい。


「知らない人いっぱい」


 ミコが小声で言った。


「隊商が来たからねぇ」


「お金持ち?」


「どうかな」


「じゃあ丸パンいっぱい売れる?」


「そうかも」


「やった!」


「お前はそればっかだな」


 呆れたようにバルドが言う。


 その時。


 二階から、ぎし、と床が鳴った。


 ミコがぱっと顔を上げる。


「ルティちゃん?」


 階段の上に、小さな影が見えた。


 ルティだった。


 淡い色の髪が少し乱れている。


 白い寝間着の袖を軽く握りながら、ぼんやりこちらを見下ろしていた。


「……おはよ」


 小さな声。


 眠そうな、いつもの声。


 けれど。


 ミーシャはすぐに気づいた。


 顔色が悪い。


「ルティちゃん、大丈夫?」


 ルティは少し瞬きをしてから。


「へいき」


 と、ぽつりと言った。


「ちょっと、ねむいだけ」


 そう言いながら階段を降りようとして。


 一段だけ、少しふらつく。


 バルドが眉を寄せた。


「まだ寝てろ」


「でも」


「いいから」


 ルティは少し黙った。


 それから。


「……てつだう」


「しなくていい」


「したい」


 静かなやり取り。


 いつも通りみたいなのに。


 どこか少しだけ危うい。


 ミコがじっとルティを見ていた。


「……なんか変」


 ミーシャが顔を向ける。


「え?」


 ミコは眉を寄せた。


「うまく言えないけど」


 視線はルティへ向いている。


 ミコは時々、他の人には分からない“気配”を感じることがあった。


 それを気味悪がる大人もいる。


 でもルティだけは、ミコの言葉を笑わなかった。


「昨日もね、東通りのとこ、変な感じしたの」


「変な感じ?」


「空気が、ざわざわしてるみたいな」


 ミコは胸元を押さえる。


「なんか、嫌」


 その瞬間。


 ミーシャの手が止まった。


 二階では旅人の咳が聞こえる。


 暖炉の火が、小さく爆ぜた。


 ――熱。


 頭の奥に、その言葉が浮かぶ。


 昔も、最初は曖昧だった。


 少し寒い。


 少し苦しい。


 ただの風邪みたいに始まって。


 気づいた時には、もう戻れなかった。


「ミーシャ?」


 呼ばれて、はっとする。


 バルドが怪訝そうに見ていた。


「顔色悪いぞ」


「……え?」


「大丈夫か」


 ぶっきらぼうな声。


 でも、本気で気にしているのが分かる。


 ミーシャは慌てて笑った。


「平気ですよ」


「ならいいが」


 短い返事。


 けれど視線は少し残る。


 ミーシャは逃げるように籠を持ち直した。


「丸パン、包みますね」


「三つ!」


「そんな食べるの?」


「お母さんの分!」


「はいはい」


 ミコは嬉しそうに笑う。


 その隣で。


 ルティが小さく咳をした。


 誰より先に、ミコが顔を上げる。


 白樺亭の中に流れる温かな匂いの中で。


 ミーシャだけが、胸の奥に広がる冷たさを押し隠せずにいた。


 窓の外では、ノールバザールの朝が完全に目を覚まし始めている。


 そのどこかで。


 まだ誰も名前をつけていない小さな異変が、静かに混じり始めていた。

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