番外編 ー ルティの里帰り(前編)ー
雪は、まだ残っていた。
森の道の端へ白く積もって、踏まれるたびに、ぎゅっ、と乾いた音を立てる。
「……」
ルティは、白い息を吐きながら歩いていた。
背中には、小さな荷物。
右手には、白樺亭で焼いたパンの包み。
左腕の痣は、まだ薄く残っている。
けれど、痛みはもうほとんどなかった。
「……まだ?」
「さっきから三回聞いてる」
前を歩くザーラが振り返らずに言う。
「あと少しよ」
「……あとすこし、ながい」
「森だからね」
「……むう」
ルティが、ちょっとむくれる。
その横で、ザーラが小さく笑った。
前より、自然に笑うようになった。
白樺亭へ戻ってから、少しずつ。
本当に少しずつ。
凍っていたものが、溶けていくみたいに。
「緊張してるの?」
セレナが後ろから聞く。
ルティは、ちょっと考えた。
「……する」
「ミーナ、怒ってるかなって?」
「……うん」
ザーラが、ぼそっと言う。
「怒ってるでしょうね」
「他人事みたいに言うな」
セレナが呆れる。
「あなたの方が怒られるわよ」
「……否定できない」
珍しくザーラが目を逸らした。
ルティが、じっと見る。
「……ザーラ、こわい?」
「怖いわよ」
即答だった。
「すごく」
その声が、少しだけ小さい。
ルティは、きょとんとする。
ザーラって、怖いものあったんだ。
そんな顔をした。
「……」
ザーラは、雪を踏みながら前を見る。
木々の向こう。
煙が見えていた。
小さな家。
森の中の、古びた灯り。
昔、ルティが暮らしていた場所。
そして。
ザーラが、時々帰っていた場所。
「……ある」
ルティが、小さく呟く。
胸が、どくどくした。
懐かしい。
でも、ちょっと怖い。
白樺亭へ帰った時と似ている。
帰りたい場所ほど、本当にそこにあるのか怖くなる。
「……」
家が近づく。
煙の匂い。
木の匂い。
煮込みの匂い。
全部、知っている。
ルティの足が、少しだけ速くなる。
でも。
途中で、ぴたりと止まった。
「……ルティ?」
セレナが呼ぶ。
ルティは、家を見たまま動かない。
窓から、灯りが漏れている。
人の気配がする。
でも。
「……ほんもの?」
ぽつり、と言う。
ザーラの表情が、少しだけ揺れた。
それは。
帰ってきた人間しか、言えない言葉だった。
「……本物よ」
ザーラが、静かに言う。
「今度は」
ルティが、ぎゅっとパン袋を抱える。
その時だった。
家の扉が、勢いよく開いた。
「ちょっと今の音何――」
途中で、声が止まる。
出てきたのは、ミーナだった。
厚手の上着。
無造作に結んだ髪。
少し眠そうな目。
でも。
その目が、こちらを見た瞬間。
完全に止まった。
「……」
雪の音だけがする。
ミーナは、まずルティを見る。
それから。
その後ろのザーラを見る。
時間が、止まる。
「……」
ザーラが、少し困った顔をした。
「……久しぶり」
ミーナの唇が、震える。
でも次の瞬間。
「……ばかじゃないの」
声が、かすれていた。
「今さら、どの顔で帰ってきてんのよ……!」
ザーラが、少し眉を下げる。
「その……」
「その、じゃない!!」
ミーナが、雪を踏んで近づいてくる。
怒ってる。
本気で怒ってる。
でも。
目が、真っ赤だった。
「どれだけ待ったと思ってんのよ!」
ザーラが、何も言えなくなる。
「死んだと思った!」
「……」
「探した!」
「……」
「何年も!!」
そこで、声が崩れた。
ミーナが、ぐしゃっと顔を歪める。
「なのに……っ」
涙が落ちる。
ザーラが、完全に困り果てた顔をした。
薬師として人を助けていた頃でも。
境界にいた頃でも。
こんな顔、してなかった。
「……ミーナ」
「うるさい!!」
「……はい」
ザーラが素直に黙る。
ルティが、ぽかんとして見ていた。
「……ザーラ、おこられてる」
「見れば分かるわよ」
セレナが呟く。
「……ザーラ、しゅんってした」
「珍しいもの見たわね」
ミーナが、涙を拭いながらザーラを睨む。
「何か言うことないの!?」
ザーラが、少し黙る。
雪が降っている。
白い息が混じる。
それから。
本当に小さな声で。
「……ごめん」
ミーナの顔が、また崩れた。
「っ……」
今度は怒鳴らなかった。
代わりに。
ぐいっとザーラの服を掴む。
「帰ってくるの遅すぎなのよ……!」
ザーラが、目を閉じる。
その顔は、泣きそうだった。
でも。
少しだけ、安心している顔でもあった。
「……うん」
小さく答える。
「……帰ってきた」
ミーナが、とうとう泣き出した。
ザーラの胸へ顔を押しつけて、ぐしゃぐしゃに泣く。
ザーラは最初、どうしたらいいか分からないみたいに固まっていた。
それから。
ゆっくり。
本当にゆっくり、ミーナの背中へ手を回した。
その瞬間。
ルティが、ぱちぱち瞬きする。
「……ザーラ、だっこしてる」
「するでしょうよ」
セレナが言う。
「再会なんだから」
「……でも、いつも、さわるなっていう」
「相手によるの」
「……ふかい」
「あなたにはまだ早いわね」
ルティが、難しい顔になる。
その横で。
ミーナが、ぐしゃぐしゃの顔のままザーラを睨んだ。
「……あんた、昔からそうだった」
「え?」
「無茶して、勝手に消えて、心配かけて!」
ザーラが、少しだけ苦笑する。
「ミーナにだけは言われたくない」
「はぁ!?」
「薬草取りに行って崖から落ちたの誰よ」
「一回だけ!」
「三回」
「覚えてんじゃないわよ!」
ルティが、目を丸くする。
「……ザーラ、けんかする」
「してるわね」
セレナが笑う。
でも、その笑い方はどこか安心したみたいだった。
ザーラが、ちゃんと昔の時間へ戻れている。
それが分かったから。
「……」
しばらくして。
ミーナが、ようやくルティを見る。
「……あんたも」
声が少し震える。
「帰ってきたのね」
ルティが、こくりと頷く。
それから。
ちょっと考えて。
「……ただいま」
ミーナの顔が、また泣きそうになる。
「……ほんっと、ばか」
でも今度は、ちゃんと笑っていた。
家の中へ入ると、暖炉の火がぱちぱち鳴っていた。
あったかい。
懐かしい匂いがする。
ルティは、椅子へ座った瞬間、ほっと息を吐いた。
「……へにゃ」
「何その声」
「……あんしんした」
ミーナが、少しだけ優しい顔になる。
ザーラは、その様子を静かに見ていた。
暖炉。
笑い声。
湯気。
誰かが怒る声。
誰かが笑う声。
昔、自分がもう戻れないと思っていたもの。
「……ザーラ?」
ルティが見上げる。
ザーラは、少しだけ目を細めた。
「……うん」
「……うれしい?」
ザーラは、少し考える。
それから。
暖炉の火を見ながら、静かに言った。
「……ちゃんと、生きてたみたい」




