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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第66話 帰ってきていい場所

白い湖は、もうほとんど消えかけていた。


足元の石畳も、少しずつ雪混じりの土へ戻っていく。


冷たい風が吹く。


頬へ触れる空気が、もう“向こう側”のものじゃない。


森の匂いだった。


湿った土。


枯れ葉。


雪。


生きている世界の匂い。


「……」


ルティは、静かに息を吐いた。


疲れていた。


身体が重い。


左腕の痣は、まだじんじん熱を持っている。


でも、不思議と怖くはなかった。


帰る。


ちゃんと帰る。


そう決めたあとから、痣の痛みは少しだけ静かになっていた。


「……さむい」


ぽつり、と呟く。


「現実へ戻った証拠だな」


バルドが言う。


その声も、どこか少しだけ安心しているみたいだった。


後ろを振り返ると、もう鐘楼は遠い。


白い霧の向こうで、輪郭だけを残している。


カーン――。


遠くで、最後みたいな鐘の音が鳴った。


今度の音は、寂しくない。


ルティは、小さく振り返って頭を下げた。


「……ありがと」


風が吹く。


それだけだった。


でも。


もう、あの鐘は追いかけてこなかった。


「……」


一行は、雪の積もる森をゆっくり歩き始める。


帰り道。


それだけなのに、不思議だった。


今までずっと、“帰る”って言葉を追いかけていたのに。


いざ帰れるとなると、胸が苦しい。


「……」


ザーラは、まだ静かだった。


けれど、その顔色は少しずつ戻ってきている。


白かった輪郭へ、ちゃんと生きてる人の色が戻り始めていた。


「……ザーラ」


ルティが、小さく呼ぶ。


「なに」


「……だいじょうぶ?」


ザーラは、一瞬だけ困った顔をした。


それから、小さく笑う。


「わからない」


正直な声。


「でも……ちょっと、怖い」


ルティは、その言葉へこくりと頷いた。


「……わたしも」


怖かった。


本当に帰れるのか。


帰っていいのか。


もし白樺亭がなかったら。


もし、誰もいなかったら。


そこまで考えて、胸がぎゅっとなる。


「……」


しばらく歩いていると。


風の中へ、少し違う匂いが混じった。


ルティの足が、ぴたりと止まる。


「……?」


小麦の匂いだった。


焼けたパンの匂い。


ほんの微か。


でも、間違えようがない。


「……っ」


ルティの喉が、小さく震える。


セレナも気づいたみたいに、ゆっくり前を見る。


森の向こう。


黒い木々の隙間へ、ぼんやり橙色の光が見えた。


「……」


誰も、すぐには何も言わなかった。


ただ、その灯りを見る。


雪の中で。


じっと。


「……ある」


ルティが、かすれた声で呟く。


でも。


足は動かなかった。


怖い。


もし違ったら。


もしまた、鐘楼みたいに“帰りたい気持ち”を見せられているだけだったら。


「……ルティ?」


セレナが、小さく呼ぶ。


ルティは、ぎゅっとパン袋を抱きしめた。


袋は少し冷たくなっていた。


でも、ちゃんと重みがある。


本物。


その感触だけを、何度も確かめる。


「……ほんもの?」


ぽつり、と零れる。


誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


白樺亭へなのか。


世界へなのか。


それとも。


“帰っていい”って言葉そのものへなのか。


「……」


その時だった。


風の向こうから。


かすかに、音が聞こえた。


カチャ、という音。


食器。


誰かが皿を重ねる音。


続いて。


笑い声。


小さい。


でも、確かに人の声だった。


ルティの目が、大きく揺れる。


「……」


また一歩、前へ進む。


雪を踏む。


ぎゅっ、と音がする。


現実の音。


森を抜ける。


少しずつ。


少しずつ。


白樺亭の姿が見えてくる。


煙突。


窓。


灯り。


窓際の席。


カーテン。


その全部が、ちゃんとそこにある。


「……っ」


ルティの呼吸が、浅くなる。


怖い。


まだ怖い。


だって。


あんなに帰りたかった場所が、今、本当に目の前にある。


「……」


その時。


白樺亭の扉が、ぎい、と開いた。


暖かな光が、夜へ溢れる。


ルティの肩が、大きく揺れる。


でも、まだ動けない。


扉の向こうに立っていた人影が、本物かどうか、信じきれなかった。


境界では、何度も“帰りたい景色”を見せられたから。


「……」


人影が、一歩外へ出る。


エプロン。


少しくたびれたスカート。


見慣れた髪。


ミーシャだった。


でも。


ルティは、まだ動けない。


「……」


ミーシャは、何も言わずにこちらを見る。


それから、ゆっくり雪の上を歩いてきた。


急がない。


まるで、怯えた小動物へ近づくみたいに。


ルティの前まで来る。


近い。


吐く息が白い。


頬が、赤い。


生きてる人の温度。


「……」


ミーシャが、そっと手を伸ばした。


ルティの頬へ触れる。


冷たい雪の匂いがした。


あたたかい手だった。


その瞬間。


ルティの目から、ぼろっと涙が落ちる。


「……ほんもの」


かすれた声。


ミーシャの目も、少しだけ揺れた。


でも、泣かなかった。


いつもの声で。


ほんの少し困ったみたいに笑って。


「寒いんだから、入りなさい」


その言葉で。


ルティの中に張っていたものが、全部崩れた。


「……っ」


声にならない息が漏れる。


ミーシャの服を、ぎゅっと掴む。


小さな手が震えている。


「……ただいま」


ようやく言えた。


消えそうな声だった。


でも。


ミーシャは、すぐ答えた。


「おかえりなさい」


その瞬間。


ザーラが、後ろで泣き崩れた。


ずっと帰れなかった人みたいに。


ようやく、“帰ってきていい”へ辿り着いた人みたいに。

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