第65話 帰るための鐘
鐘楼の奥で。
最初の鐘守の影が、ゆっくりルティへ手を伸ばしていた。
長い時間。
誰かを帰すためだけに鐘を鳴らし続けて。
最後には、自分が帰れなくなって。
それでも、綱を離せなかった存在。
その手が、今。
初めて、“助けを求める側”みたいに震えていた。
「……」
ルティは、その手を見つめる。
怖かった。
まだ、鐘楼の奥には黒い澱みが残っている。
帰れなかった想い。
置いていかれたくなかった声。
全部は消えていない。
でも。
「……かえりたい?」
ルティが、小さく聞く。
最初の鐘守は、答えない。
けれど。
鐘楼の奥で、低く鐘が鳴った。
カーン――。
今までみたいな悲鳴じゃない。
遠くで、誰かが泣きながら頷いたみたいな音だった。
「……」
ルティは、ゆっくり手を伸ばす。
その時だった。
鐘楼全体が、大きく揺れる。
ごおおおお……。
低い音。
塔の奥に残っていた黒い澱みが、急速に渦を巻き始める。
「っ!」
セレナが顔を上げる。
「まだ残ってる!」
リオンが鋭く言った。
「当然だ」
「積もった感情は、一度じゃ消えん」
黒い霧が、鐘楼の壁を這う。
帰りたい。
置いていくな。
忘れるな。
無数の声が、重なって響く。
最初の鐘守の影が、苦しそうに揺れた。
また綱を掴もうとしている。
また、“ひとりで鳴らそう”としている。
「……っ」
ルティの胸が、ぎゅうっと痛くなる。
違う。
また、ひとりで抱え込もうとしてる。
「……だめ」
小さく言う。
鐘守の影が止まる。
「……ひとり、ちがう」
ルティは、一歩前へ出た。
「……ひとりで、ならすから」
「……おもく、なる」
ザーラが、はっとルティを見る。
その言葉は。
ザーラ自身へ向けられた言葉でもあった。
「……だから」
ルティは、鐘楼の奥を見る。
巨大な鐘。
長い時間、帰れなかった声を抱え続けてきた鐘。
「……みんなで、ならす」
静かな声だった。
でも。
鐘楼の空気が、ぴたりと止まる。
「……みんなで?」
ザーラが、かすれた声で繰り返す。
ルティは、こくりと頷いた。
「……うん」
「……て、いっぱい、ある」
「……なら」
「……いっぱいで、もつ」
数秒。
誰も言葉を返せなかった。
それから。
バルドが、深く息を吐く。
「……お前なあ」
呆れた声。
でも、少し笑っていた。
「ほんと、そういう方向に行くよな」
「……だめ?」
「いや」
バルドは、鐘楼の上を見た。
巨大な鐘。
長い綱。
そして。
震えているルティの小さな手。
「一人でやらせるより、百倍マシだ」
ルティの顔が、少しだけ明るくなる。
「……うん」
セレナが、涙を拭いながら笑った。
「そうね」
「帰るための鐘なら、一人で鳴らすものじゃないわ」
ザーラが、ゆっくり目を見開く。
その言葉が、信じられないみたいに。
「……みんなで」
ぽつり、と呟く。
今まで、考えたこともなかったみたいに。
リオンが静かに言った。
「境界は、“繋がり”で安定する」
「なら理にはかなっている」
「問題は」
ガイルが鐘を見る。
「鳴らした瞬間だな」
全員の空気が、少しだけ張り詰める。
ザーラが、小さく頷いた。
「最後の鐘を鳴らせば、境界は閉じ始める」
「でも同時に」
「帰れなかったものたちが、最後に一斉に溢れる」
ルティの痣が、どくん、と脈打った。
怖い。
ものすごく怖い。
でも。
「……なら」
ルティが、小さく言う。
「……よぶ」
ザーラが、目を瞬かせる。
「……え?」
「……かえりたい、ひと」
「……いっぱい、よぶ」
バルドが、少し吹き出した。
「無茶苦茶だな」
「……だめ?」
「いや」
バルドは、ルティの頭へ手を置く。
大きな手。
乱暴そうなのに、ちゃんと温かい。
「お前らしい」
ルティが、少しだけ笑う。
その瞬間だった。
鐘楼の壁へ浮かんでいた影たちが、ゆっくりこちらを見る。
帰れなかった人たち。
忘れられた名前。
泣き続けていた声。
その全部が、ルティの言葉を聞いていた。
「……」
ルティは、怖いまま、その人たちを見る。
そして。
ゆっくり言った。
「……かえる?」
静かな声。
でも。
鐘楼全体へ響くみたいに、まっすぐだった。
「……ごはん、あるよ」
セレナが、思わず吹き出す。
「ルティ」
「……だいじ」
「ええ、そうね」
ルティは、真剣な顔で頷く。
「……あったかいの」
「……まってるひと」
「……あるなら」
「……かえれる」
その瞬間。
鐘楼の中へ、風が吹いた。
今までの冷たい風じゃない。
パンの匂い。
暖炉。
誰かが名前を呼ぶ声。
そんなものを思い出させる、やわらかい風だった。
影たちが、少しずつ顔を上げる。
泣きそうな顔で。
懐かしそうな顔で。
「……」
最初の鐘守の影が、ゆっくり綱から手を離した。
何百年も離せなかった手。
その手が。
初めて、震えながら下りていく。
ルティは、それを見て、小さく頷いた。
「……うん」
「……いっしょ」
そして。
ルティは、巨大な鐘の綱へ手を伸ばした。
小さな手。
でも、今は一人じゃない。
バルドが、その後ろから綱を支える。
セレナが、ルティの名前を呼ぶ。
ザーラが、震える手で隣へ並ぶ。
ガイルが鐘楼の揺れを支え。
リオンが、崩れかけた境界を睨み続ける。
「……」
ルティは、小さく息を吸った。
怖い。
でも。
ちゃんと帰る。
そのために鳴らす。
「……いくよ」
その声へ。
みんなが、頷いた。
そして。
鐘楼の最上階で。
長い長い孤独の果てに。
“ひとりで鳴らされていた鐘”へ、初めて、たくさんの手が重なった。
冷たかった綱へ、人の温度が戻っていく。
帰りたかった人。
帰したかった人。
置いていかれたくなかった人。
ずっと名前を呼び続けていた人。
その全部が、静かに重なっていく。
ルティの小さな手は震えていた。
怖かった。
失敗するかもしれない。
また誰かが帰れなくなるかもしれない。
それでも。
隣には、ちゃんと誰かの手がある。
離さないと言ってくれる手。
名前を呼んでくれる声。
“帰ってきていい”と知っている温度。
「……」
ルティは、小さく息を吸った。
白樺亭の匂いがする。
暖炉。
パン。
窓際の席。
「ただいま」って言ったら、「おかえり」が返ってくる場所。
その全部を胸の奥へ抱きしめるみたいにして。
ルティは、綱を握った。
その瞬間。
最初の鐘守の影が、静かに目を閉じる。
もう、自分ひとりで鳴らさなくていいのだと。
何百年も離せなかった孤独を、ようやく手放すみたいに。
「……いくよ」
ルティが、小さく言った。
バルドが頷く。
セレナが、涙を堪えながら笑う。
ザーラが、震える手で綱を握り返す。
そして。
鐘楼の最上階で。
たくさんの“帰りたい”を抱えたまま。
たくさんの“帰ってきていい”を重ねながら。
みんなで、一緒に鐘を鳴らした。
カァァァァン――――。
その音は、今までの鐘とはまるで違っていた。
悲鳴じゃない。
泣き声でもない。
誰かを縛りつける音でもない。
それは。
遠い夜道の向こうで、家の灯りを見つけた時みたいな音だった。
もう帰れないと思っていた人が、初めて名前を呼ばれた時みたいな音だった。
白い湖へ、鐘の音がどこまでも広がっていく。
すると。
湖面へ映っていた無数の影たちが、ゆっくり顔を上げた。
泣きそうな顔で。
懐かしそうな顔で。
そして。
ひとり、またひとりと。
白い光へほどけるように、静かに帰っていく。
――ただいま。
そんな声が、どこかで聞こえた気がした。
ルティの目から、ぽろりと涙が落ちる。
怖かった。
苦しかった。
でも。
今は、ちゃんと分かる。
“帰る”って、消えることじゃない。
誰かが待っていて。
誰かが名前を呼んで。
「帰ってきていい」って言ってくれることなんだと。
カァァァァン――――。
鐘が、もう一度鳴る。
その音は今度こそ。
長い長い夜を越えて、“帰る場所”へ辿り着いた音だった。




