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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第64話 最初の鐘守


鐘楼の奥で、巨大な“何か”が目を開いた。


それは、獣ではなかった。


人でもなかった。


けれど、ただの闇でもなかった。


長い時間の底に沈んだ、帰れなかった声。


誰にも呼ばれなかった名前。


置いていかれた寂しさ。


忘れられたくないと願い続けた痛み。


そういうものが幾重にも重なって、形になってしまったものだった。


「……っ」


ルティは、思わず胸の前のパン袋を抱きしめた。


鐘楼の中にいるのに、白樺亭の匂いがする。


それだけが、今のルティをこちら側へ繋ぎ止めていた。


「……あれ」


小さく、ルティが言う。


「……ないてる?」


誰も、すぐには答えなかった。


バルドは、ルティを庇うように前へ立っている。


ガイルは剣に手をかけ、リオンは奥の闇を睨んでいた。


セレナだけが、息を呑むようにして呟いた。


「……泣いている、のかもしれないわね」


ザーラが、ゆっくり目を伏せた。


「最初は、そうだった」


ルティが、ザーラを見る。


「……さいしょ?」


ザーラは、鐘楼の奥を見た。


巨大な闇が、ゆっくりと息をするように揺れている。


その奥で、また鐘が鳴った。


カーン――。


低く、深く。


昔話の底から響くみたいな音だった。


「この鐘楼には、最初の鐘守がいたの」


ザーラの声は静かだった。


でも、その声には、長い間触れられなかった記憶を開くような痛みがあった。


「まだ境界が、今みたいにはっきり分かれていなかった頃」


「人は、迷うと帰れなくなった」


「森でも、雪の中でも、夢の中でも」


「帰り道を失った人は、少しずつ名前を忘れて、最後には向こう側へ落ちていった」


ルティは、黙って聞いていた。


自分の腕の痣が、じんじんと熱い。


でも、不思議と目を逸らせなかった。


「その時、最初に鐘を鳴らした人がいた」


ザーラが言う。


「名前は、もう残っていない」


「ただ、“鐘守”とだけ呼ばれている」


その瞬間。


鐘楼の壁に、古い光景が浮かび上がった。


今よりずっと昔。


雪に沈む村。


夜の森。


帰れなくなった人々。


そして、鐘楼の上に立つひとりの人物。


性別も年齢も分からない。


けれど、その人は両手で鐘の綱を握りしめ、凍える夜へ向かって鐘を鳴らしていた。


カーン。


カーン。


その音を聞いて、人々が顔を上げる。


泣いていた子どもが、母親の手を思い出す。


倒れていた男が、自分の家の灯りを思い出す。


名前を忘れかけていた女が、自分を呼ぶ声を思い出す。


「……すごい」


ルティが、小さく言った。


「……かえれた?」


ザーラは、少しだけ頷いた。


「帰れた人もいた」


「鐘の音は、帰る場所を思い出させたから」


「でも」


その言葉のあと、壁の光景が変わる。


鐘楼の下へ、人が集まっていく。


助けて。


帰して。


まだあの子が帰っていない。


母がいない。


弟がいない。


友達が向こう側にいる。


声が増える。


願いが増える。


帰りたい気持ちが、鐘楼へ集まり続ける。


「鐘守は、誰も見捨てられなかった」


ザーラの声が、少し震えた。


「ひとり帰せば、次のひとりが泣いた」


「次を帰せば、また次が叫んだ」


「そして最後には、帰りたい声が多すぎて、鐘守自身の帰る場所が聞こえなくなった」


ルティは、息を止めた。


壁の中の鐘守が、ひとりで鐘を鳴らし続けている。


誰もいない塔の上で。


手が裂けても。


声が枯れても。


それでも。


帰れ。


帰れ。


帰れ。


そう願って、鐘を鳴らし続けている。


「……ひとり」


ルティが、ぽつりと呟いた。


「……ずっと、ひとり?」


ザーラは、答えなかった。


それが答えだった。


セレナが、苦しそうに目を伏せる。


「それが、鐘楼の始まり……」


リオンが低く言う。


「そして、その願いが澱んだ」


ザーラが頷く。


「そう」


「“帰ってほしい”は、いつか“置いていかないで”に変わった」


「“帰りたい”は、いつか“お前もここにいろ”に変わった」


「最初の鐘守は、もう人ではなくなった」


「でも、まだ鳴らしている」


「帰すためじゃない」


「帰れないものを、ここに留めるために」


鐘楼の奥の巨大な闇が、ゆっくり揺れた。


まるで、その話を聞いているみたいに。


そして、闇の奥から、低い声が流れてくる。


――置いていくな。


ルティの肩が、震えた。


――また、ひとりにするのか。


その声は怖かった。


でも。


ただ怖いだけじゃなかった。


寂しすぎる声だった。


「……」


ルティは、ぎゅっとパン袋を抱く。


「……わたし」


小さく言う。


「……おいていかない」


バルドが振り向く。


「ルティ」


「……でも」


ルティは、闇を見上げた。


泣きそうな顔で。


でも、ちゃんと見ていた。


「……いっしょに、しずむのも、ちがう」


ザーラの瞳が揺れる。


「……ルティ」


ルティは、少しずつ言葉を探す。


難しい。


怖い。


でも、言わないといけない。


「……かえる」


「……わたし、かえる」


「……でも」


「……よぶ」


「……かえりたいひと、よぶ」


「……かえれないって、ないてるひと」


「……ひとりに、しない」


バルドが、深く息を吐いた。


「お前な」


声は低い。


けれど、怒ってはいなかった。


「無茶すんなって言っただろ」


「……する」


「するな」


「……ちょっと、する」


「ちょっとでも駄目だ」


「……でも、て、にぎって」


ルティは、バルドへ手を伸ばした。


「……はなさないで」


バルドは、一瞬黙った。


それから、荒っぽくその手を握る。


「離すかよ」


「……うん」


ルティは、少しだけ安心したように頷く。


セレナも、そっと反対側へ立つ。


「ルティ」


「あなたは、残るために行くんじゃない」


「……うん」


「帰るために行くの」


「……うん」


ザーラが、震える声で言った。


「私は、それができなかった」


ルティは、ザーラを見る。


「……じゃあ」


「……いっしょに、れんしゅう」


「……?」


ザーラが、目を瞬かせる。


こんな場所で。


こんな状況で。


あまりにもルティらしい言葉だった。


「……れんしゅう?」


「……うん」


ルティは真剣に頷く。


「……かえる、れんしゅう」


「……ひとりで、がんばる、ちがう」


「……て、にぎる」


「……なまえ、よぶ」


「……ごはん、たべる」


「……ただいま、いう」


バルドが、思わず額を押さえる。


「途中から生活指導だな」


「……だいじ」


「まあ、だいじだな」


ザーラは、ぽかんとルティを見ていた。


そして。


ほんの少しだけ、笑った。


泣きそうな笑顔だった。


「……あなた、本当に変な子」


「……よく、いわれる」


「でしょうね」


セレナが、涙を拭きながら笑った。


その笑いが、鐘楼の冷たい空気をほんの少しだけほどく。


鐘楼の壁に映っていた古い記憶が、ゆっくり揺れた。


最初の鐘守が、塔の上で振り返る。


顔は見えない。


でも。


ルティには、分かった。


見ている。


こちらを。


「……」


ルティは、一歩前へ出る。


バルドの手を握ったまま。


セレナが名前を呼ぶ声を背中に受けながら。


ザーラが隣で息を呑む気配を感じながら。


「……鐘守さん」


小さく呼ぶ。


巨大な闇が、静かに揺れた。


「……かえりたい?」


答えはない。


ただ、鐘が鳴る。


カーン――。


深く。


遠く。


痛いほど寂しい音。


ルティは、目を閉じた。


「……わたし」


「……全部、わからない」


「……でも」


「……ひとり、さみしい」


「……それは、わかる」


その瞬間。


闇の奥で、何かが震えた。


「……ひとりで、鳴らしたの」


「……たいへん、だった」


「……いっぱい、よんだの」


「……えらい」


バルドが、小さく息を呑んだ。


セレナも、リオンも、ガイルも、ザーラも。


誰も、言葉を挟めなかった。


ルティの声は、幼くて、拙い。


けれど。


誰も言わなかった言葉だった。


最初の鐘守へ。


“失敗した者”としてではなく。


“ずっと帰したかった者”として。


初めて届く言葉だった。


「……でも」


ルティは、ゆっくり目を開ける。


「……もう」


「……ひとりで、ならさなくていい」


鐘楼全体が、震えた。


カーン――。


今度の鐘は、悲鳴ではなかった。


泣き声にも似ていた。


闇の奥に、ひとつの光景が浮かぶ。


塔の下。


小さな家。


暖炉。


食卓。


誰かが、扉の前で待っている。


もう名前も顔も分からない。


それでも。


“待っていた”ことだけは、残っている。


「……」


巨大な闇が、初めて小さく揺れた。


ザーラが、震える声で呟く。


「思い出してる……」


ルティは、バルドの手を握りしめる。


怖い。


まだ怖い。


でも。


もう、あの闇はただの怪物には見えなかった。


帰れなくなって、帰らせ続けて、最後に自分が帰れなくなった誰かだった。


「……かえろ」


ルティは言った。


「……でも」


「……わたしも、かえる」


「……ザーラも、かえる」


「……鐘守さんも」


「……かえりたいなら」


「……よぶ」


鐘楼の上から、白い光ではなく、音が降ってきた。


静かな余韻。


誰かの名前を思い出す前の、胸の震えみたいなもの。


そして。


最初の鐘守の影が、ほんの一瞬だけ、人の姿を取り戻した。


顔は、まだ見えない。


でも、その手はもう、鐘の綱を握っていなかった。


ただ。


ルティへ向かって、そっと手を伸ばしていた。


まるで。


長い長い時間の果てに、初めて誰かへ迎えに来てもらった子どもみたいに。

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