第63話 鐘楼の中で
鐘楼の扉が、ゆっくりと開いていく。
重たい音だった。
長い間、誰にも触れられず、誰にも呼ばれず、ただ閉ざされ続けていたものが、ようやく息をし始めるみたいな音。
白い世界へ、低い鐘の余韻が静かに広がっていく。
そして鐘楼は、初めて。
“帰ろうとする者”へ向かって、扉を開き始めていた。
「……」
ルティは、その扉を見上げたまま、小さく息を呑む。
怖い。
扉の奥から流れてくる空気は、冷たいわけじゃない。
むしろ逆だった。
懐かしい。
だから怖い。
「……ルティ」
セレナが、静かに呼ぶ。
ルティは、少しだけ振り返る。
セレナの灰色の瞳には、不安が滲んでいた。
「無理なら戻るのよ」
「……うん」
頷く。
でも。
戻る気はなかった。
「……いく」
小さく言う。
「……むかえに」
ザーラの肩が、わずかに揺れた。
「……」
鐘楼の窓にいた黒い影は、もう見えなくなっている。
けれど、“いる”のは分かる。
扉の向こう。
もっと奥。
鐘楼そのものの中心で、ずっと待っている。
「行くぞ」
バルドが低く言った。
その声に押されるみたいに、一行はゆっくり鐘楼の中へ足を踏み入れる。
途端。
空気が変わった。
「……っ」
ルティが、小さく息を呑む。
鐘楼の中は、広かった。
外から見えていた以上に。
天井は高く、どこまでも暗い。
壊れた階段が、上へ向かって何重にも伸びている。
でも。
ルティが息を止めたのは、そこじゃなかった。
「……」
鐘楼の中には、“音”が残っていた。
笑い声。
足音。
誰かがパンを切る音。
暖炉の火。
食器が触れ合う音。
帰る場所の音。
それが、鐘楼の壁の中へ閉じ込められている。
「……なに、これ」
セレナが、かすれた声で呟く。
ザーラが、静かに答えた。
「帰れなかった人たちの記憶」
ルティの胸が、ぎゅうっと締めつけられる。
階段の途中。
ぼんやりと、人影が座っていた。
幼い男の子。
膝を抱えている。
「……」
ルティが、そっと近づく。
男の子は顔を上げない。
ただ、小さな声で呟いている。
「……まだ」
「……まだ、かえってない」
ルティの足が止まる。
男の子の前には、小さな木の剣が落ちていた。
帰ったら、父親へ見せるつもりだったのかもしれない。
「……」
ルティが、しゃがみ込む。
怖がらせないように。
そっと。
「……だれ、まってるの」
男の子の肩が、びくっと震えた。
ゆっくり顔を上げる。
ぼやけた瞳。
でも、その奥には、ちゃんと感情が残っていた。
「……とうちゃん」
かすれた声。
「……つよく、なったって」
「……いう、はずだった」
ルティの胸が痛む。
「……そっか」
小さく返す。
男の子は、ぎゅっと木剣を抱きしめる。
「……でも」
「……わすれちゃう」
「……とうちゃんの、かお」
その瞬間。
ルティの左腕が、どくん、と脈打った。
男の子の感情が流れ込んでくる。
帰りたい。
忘れたくない。
でも薄れていく。
怖い。
怖い。
「……っ」
ルティの視界が、ぐらりと揺れる。
頭の奥へ、別の声が響く。
――ルティ。
やさしい声。
あたたかい声。
白樺亭の声。
「おいで」
「もう疲れたでしょう」
ルティの呼吸が止まりそうになる。
暖炉の景色が見える。
ミーシャが笑ってる。
パンの匂い。
あたたかい席。
「……っ」
帰りたい。
今すぐ帰りたい。
その瞬間。
ぐっ、と肩を掴まれた。
「見るな」
バルドの声。
低い。
乱暴。
でも、生きてる声。
ルティが、はっと顔を上げる。
「……」
そこには、ちゃんと仲間がいた。
現実の温度。
ルティの目に、涙が滲む。
「……こわ、い」
ぽつり、と零れる。
「……うん」
セレナが、静かに頷いた。
否定しない。
「怖いわね」
「……っ」
ルティの喉が、小さく震える。
その時だった。
男の子の影が、ゆっくり崩れ始める。
「……!」
ルティが振り向く。
男の子は、ぼやけた顔のまま、小さく笑っていた。
「……とうちゃん」
「……おぼえてた」
その瞬間。
男の子の身体が、白い光みたいにほどけていく。
消える。
でも。
さっきまでみたいな、“沈む”消え方じゃない。
どこか、あたたかい。
「……」
ルティが、息を呑む。
ザーラが、震える声で言った。
「帰った……」
セレナが、目を見開く。
「そんな……」
ザーラの瞳が揺れていた。
信じられないものを見るみたいに。
「今まで、こんなこと……」
ルティは、男の子が消えた場所を見る。
怖かった。
寂しかった。
でも。
最後の顔は、少し安心していた。
「……」
ルティは、自分の胸を押さえる。
どくどく脈打っている。
怖い。
でも。
「……かえれた」
小さく呟く。
その瞬間。
鐘楼のもっと上。
暗闇の奥から。
ぞわり、と空気が揺れた。
「……っ」
リオンの顔色が変わる。
「来るぞ」
低い声。
階段のさらに上。
闇の中で、何か巨大なものが蠢いている。
帰れた。
その事実へ反応するみたいに。
「……」
ザーラが、青ざめた顔で上を見上げる。
「怒ってる」
「何がだ」
ガイルが剣を構える。
ザーラは、震える声で答えた。
「“帰れないままでいろ”って、ずっとここを閉じてたもの」
鐘楼全体が、低く軋み始める。
カァン――。
鐘が鳴る。
でも今度の音は、少し違った。
悲鳴みたいだった。
その瞬間。
鐘楼の壁という壁へ、無数の影が浮かび上がる。
帰れなかった人たち。
忘れられた人たち。
置いていかれた感情たち。
その全部が、一斉にルティを見る。
「……っ」
ルティの身体が、震える。
怖い。
怖いのに。
逃げられない。
だって。
みんな、“帰りたい顔”をしていた。
その時。
また、あの声が響いた。
――ルティ。
今度は、もっと近かった。
階段の上。
暗闇の奥。
「こっちへおいで」
「もう、苦しくなくなるよ」
ルティの足が、一瞬だけ止まる。
頭の奥が、甘く痺れる。
帰りたい。
休みたい。
消えてしまえば、楽になれる。
その誘惑が、静かに胸へ入り込んでくる。
「……ルティ!」
セレナの声。
でも遠い。
「……っ」
ルティの視界が、白く滲む。
その時。
ぽん、と。
胸へ抱えたパン袋が、腕から滑り落ちそうになった。
「……!」
ルティが、はっとする。
慌てて抱き直す。
袋の中から、小麦の匂いがふわっと広がる。
白樺亭の匂い。
暖炉。
食卓。
“帰ってきていい”って言ってくれる場所。
「……」
ルティの呼吸が、少し戻る。
そして。
小さく。
でも、はっきり言った。
「……ちがう」
鐘楼の奥の気配が、ぴたりと止まる。
ルティは、震える声のまま続けた。
「……それ」
「……かえってこい、じゃない」
「……ひとりで、こい、っていう声」
白い空気が、びり、と揺れる。
ルティは、泣きそうな顔のまま、でもちゃんと前を向いていた。
「……わたし」
「……ちゃんと、かえる」
そして。
ゆっくり、ザーラを見る。
「……ザーラも」
「……いっしょに」
ザーラの瞳が、大きく揺れた。
その瞬間だった。
鐘楼の最上階。
暗闇のさらに奥で。
巨大な“何か”が、ゆっくり目を開いた。




