第55話 鐘の番人
地下道の奥で。
巨大な影が、ゆっくり立ち上がった。
ごおおお……。
重い音。
地面そのものが、低く唸っているみたいだった。
「……っ」
ルティの身体が、小さく震える。
暗闇の向こう。
“それ”は、人の形をしていなかった。
黒い布を何重にも巻きつけたみたいな影。
頭があるはずの場所には、何もない。
ただ。
胸の中央に。
古びた鐘が埋まっていた。
こん。
こん。
壊れた音。
その鐘が、自分で鳴っている。
「……なんだ、あれ」
バルドの声が低くなる。
リオンの目が鋭く細まった。
「……鐘守り」
「鐘守り?」
セレナが、かすかに息を飲む。
「まだ残ってたの……?」
鐘守りは、ゆっくりこちらを向いた。
顔はない。
でも、“見られている”感覚だけがある。
ぞわ、と背筋が冷える。
「下がれ」
リオンが、一歩前へ出る。
ガイルも剣へ手をかける。
その瞬間。
こん。
鐘が鳴った。
「っ……!」
ルティの左腕が、熱く脈打つ。
同時に。
頭の奥へ、声が流れ込んだ。
――かえして。
「……!」
ルティが息を呑む。
今の。
今の声。
「ルティ!」
セレナが呼ぶ。
「何が聞こえた!?」
ルティは、苦しそうに額を押さえる。
鐘の音が響く。
頭の中へ。
胸の奥へ。
――かえして。
――まだ。
――まだ、かえれてない。
「……っ」
ルティの目に涙が滲む。
悲しい。
すごく。
まるで。
ずっと帰れなくて泣いてるみたいな声だった。
「……」
鐘守りが、一歩前へ出る。
ずん。
地面が揺れる。
「来るぞ!!」
ガイルが叫ぶ。
次の瞬間。
鐘守りの身体から、黒い霧が一気に噴き出した。
「っ!!」
バルドがルティを抱き寄せる。
霧が通り過ぎる。
冷たい。
息が詰まる。
その瞬間。
「……あ?」
バルドが、止まった。
「……?」
ルティが見上げる。
バルドが、妙な顔をしている。
「……おい」
低い声。
「俺たち、どこ向かってた?」
空気が凍る。
セレナの顔色が変わる。
「だめ!」
即座に叫ぶ。
「名前を呼んで!!」
「……っ!」
ルティが、はっとする。
忘れる。
これが、境界の侵食。
「……バルド!!」
ルティが叫ぶ。
「……バルド!!」
バルドの目が、ゆっくりこちらへ向く。
でも、焦点がぼやけている。
「……誰だ、お前」
その言葉で。
ルティの胸が、ぎゅっと痛んだ。
「……っ」
怖い。
忘れられる。
ここにいたことを。
全部。
「ルティ!!」
今度はセレナが叫ぶ。
「帰る場所を言って!!」
「……!」
帰る場所。
白樺亭。
パン。
声。
「……っ」
ルティは、涙を堪えながら叫んだ。
「……しろかばてい!!」
鐘が鳴る。
こん。
「……ぱんのにおい!!」
こん。
「……ミーシャ!!」
こん。
「……バルド、こわいかお!!」
「誰が怖い顔だ!!」
即座に返ってきた。
「……!」
ルティの目が、大きくなる。
バルドも、はっとしたように瞬きをする。
「……あ?」
「戻った!」
セレナが息を吐く。
「よかった……!」
バルドは、頭を押さえた。
「っ、頭痛ぇ……」
「侵食されたのよ」
セレナが低く言う。
「長く浴びたら、名前も帰る場所も消える」
「……」
ルティは、ぎゅっと服を握る。
怖い。
今、本当に。
バルドが、自分を忘れかけた。
「……」
鐘守りが、また一歩前へ出る。
こん。
鐘が鳴る。
その度に、記憶が揺れる。
「まずいな」
ガイルが低く言う。
「長引くほど削られる」
リオンが、鐘守りを睨む。
「鐘を止める」
「止められんのかよ」
「止めるしかない」
その瞬間。
鐘守りの胸の鐘が、大きく軋んだ。
ごん――――。
今までで一番重い音。
地下道全体が揺れる。
「っ!」
ルティの視界が、ぐらりと歪む。
白樺亭の景色が、遠くなる。
パンの匂い。
ミーシャ。
笑い声。
全部が薄くなる。
「……っ」
だめ。
忘れたら、帰れない。
「……」
その時だった。
ぽふ、と。
頭に何か当たった。
「……?」
ルティが見る。
丸パンだった。
「食え!!」
バルドが怒鳴る。
「へ?」
「いいから食え!!」
「……いま!?」
「今だ!!」
ルティは混乱しながら、ぱくっと齧った。
「……」
おいしい。
白樺亭の味。
その瞬間。
ぶわっ、と記憶が戻る。
暖炉。
厨房。
ミーシャ。
リック。
オットー。
白樺亭。
「……っ!」
ルティの目が開く。
セレナも、はっとした。
「そうか……!」
「感覚を使うのね!」
「……?」
ルティは、もぐもぐしながら首をかしげる。
バルドが叫ぶ。
「考えるな食え!!」
「……たべてる」
「真顔で食うな!!」
でも。
そのやり取りで。
空気が少しだけ戻った。
帰る場所。
まだ消えてない。
「……」
ルティは、パンを握ったまま鐘守りを見る。
怖い。
でも。
さっき、聞こえた。
――まだ、帰れてない。
あれは。
化け物の声じゃなかった。
「……」
ルティは、小さく前へ出る。
「ルティ!」
セレナが止める。
でも。
ルティは、鐘守りを見たまま言った。
「……あなた」
鐘守りが、止まる。
「……かえりたいの?」
こん。
鐘が、小さく鳴る。
その音は。
さっきより少しだけ、寂しそうだった。




