第56話 帰れない鐘
地下道には、壊れた鐘の音が、絶え間なく響いていた。
こん。
こん。
冷たく、欠けたような音。
まるで、どこか壊れた心臓が、無理やり脈を打っているみたいな響きだった。
鐘守りは、地下道の中央で、ゆっくりこちらを見下ろしている。
顔はない。
目もない。
それなのに、見られている感覚だけが、肌へじわじわと張り付いてくる。
胸の中央に埋め込まれた古い鐘だけが、暗闇の中で鈍く揺れていた。
「……」
ルティは、小さく息を呑む。
怖い。
ちゃんと怖い。
でも、それ以上に。
悲しい。
その鐘の音が、あまりにも寂しそうで、胸の奥がぎゅうっと締めつけられる。
「……」
ルティは、そっと一歩前へ出た。
「ルティ!」
すぐに、セレナの声が飛ぶ。
細い指が、ルティの腕を掴んだ。
「近づきすぎないで」
「……」
ルティは、鐘守りから目を離さないまま、小さく言う。
「……でも」
「危険よ」
「……うん」
「忘れたの? さっき、バルドが侵食されたの」
セレナの声には、はっきり焦りが混じっていた。
ほんの少し記憶を削られただけで、バルドはルティのことを忘れかけた。
ここは、それほど危険な場所だ。
「……」
けれど、ルティは逃げなかった。
怖くないわけじゃない。
むしろ、怖い。
頭の奥では、鐘の音がずっと響いている。
近づけば、自分も削られるかもしれない。
白樺亭を忘れるかもしれない。
帰れなくなるかもしれない。
それでも。
「……ひとりで、いかない」
小さな声で、はっきりと言った。
セレナが、わずかに息を止める。
ルティは、ちゃんと覚えている。
以前みたいに、ひとりで飛び込もうとしているわけじゃない。
ちゃんと“帰るための糸”を持ったまま、進もうとしている。
「……」
ルティが、そっと左手を伸ばした。
「……バルド」
「……あ?」
「……て」
バルドが、一瞬だけ眉をひそめる。
「お前、こういう時だけ妙に素直だな」
「……いま、こわい」
「……」
その言葉を聞いた瞬間。
バルドの表情から、少しだけ険しさが抜けた。
何も言わず、ルティの小さな手を握る。
大きくて、ごつごつした手。
乱暴そうなのに、ちゃんと温かい。
生きている人間の温度だった。
「離すなよ」
低い声。
「……うん」
ルティが、小さく頷く。
セレナも、静かにルティの反対側へ立つ。
「私が名前を呼び続ける」
「……うん」
「帰れなくなりそうなら、すぐ戻す」
リオンは、鐘守りから視線を外さないまま、低く言った。
「長くは持たん」
ガイルも、地下道の奥を警戒している。
空気が変わっていた。
ここは、もう普通の場所ではない。
少しずつ、自分という輪郭が削れていく場所だ。
「……」
こん。
鐘が鳴る。
その音に合わせるように、ルティの左腕の痣が、どくん、と熱を持った。
冷たい空気が、肌の下へ入り込んでくる。
頭がぼんやりする。
自分が薄くなっていく感じ。
でも。
「ルティ」
セレナの声が響く。
「あなたの帰る場所は?」
「……しろかばてい」
「誰がいる?」
「……ミーシャ」
「他は?」
「……リック、うるさい」
「誰がうるせえって?」
いないはずのリックの声が聞こえた気がして、ルティが少しだけ口元を緩める。
その小さな笑いだけで、視界が少し戻る。
「……バルド、こわい」
「あとで覚えとけよ」
「……でも、やさしい」
「……」
バルドが、一瞬だけ黙る。
セレナが、その横で小さく吹き出した。
そのやり取りが、地下道の冷たさを少しだけ押し返す。
“帰る場所”の空気。
それが、ちゃんとここまで届いている。
「……」
鐘守りが、ゆっくり揺れた。
こん。
鐘が鳴る。
その音が、少しだけ弱くなる。
そして。
黒い布の奥から、かすれた声が漏れた。
――かえ、して。
ルティの目が、大きく開く。
「……!」
今度は、はっきり聞こえた。
化け物の唸り声じゃない。
誰かの声だった。
「……あなた」
ルティが、小さく呼びかける。
「……だれ?」
鐘守りが、止まる。
地下道が、静まり返る。
水滴の音だけが響いている。
ぽた。
ぽた。
その長い沈黙のあと。
鐘守りの身体が、ゆっくり震え始めた。
黒い布の隙間から、ぼろぼろと黒い霧が崩れ落ちていく。
「……っ」
セレナが、小さく息を呑む。
「戻ってる……?」
「いや」
リオンが低く言う。
「思い出してる」
こん。
鐘が鳴る。
その音は、さっきまでと違っていた。
壊れた響きの奥に、かすかに“人間の音”が混じっている。
――……れ、ない。
ルティが、息を止める。
――帰れ、ない。
その声は、泣いていた。
長い間、たったひとりで、暗い場所へ取り残されていたみたいな声だった。
「……っ」
ルティの胸が、ぎゅうっと痛くなる。
寒い。
寂しい。
怖い。
その感情が、波みたいに流れ込んでくる。
「……」
ルティの目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……かえれないの」
鐘守りの身体が、ゆっくり揺れる。
こん。
――忘れた。
その言葉で。
ルティの呼吸が止まりそうになる。
鐘守りの胸に埋まった鐘は、深くひび割れていた。
その奥に。
ぼんやりと、人の姿が見える。
昔。
ここを歩いていた誰か。
鐘楼へ向かっていた誰か。
帰る場所を忘れて。
名前を忘れて。
ずっと、戻れなくなった誰か。
「……」
ルティは、震える声で言った。
「……おもいだして」
セレナが、はっとルティを見る。
ルティは、鐘守りから目を離さないまま、続けた。
「……あったかい、ごはん」
「……ぱんのにおい」
「……だれか、いたでしょ」
こん。
鐘が鳴る。
黒い霧が、ゆっくり揺れる。
「……まってるひと」
「……いたでしょ」
その瞬間。
鐘守りの身体が、大きく震えた。
地下道に、ぶわっ、と冷たい風が吹き抜ける。
「っ!」
ガイルが剣を構える。
リオンも一歩前へ出る。
けれど。
鐘守りは襲ってこなかった。
代わりに。
本当にゆっくりと。
黒い布の奥から、“顔”が浮かび上がってくる。
痩せた男だった。
輪郭はぼやけている。
涙みたいな黒い跡が、頬を流れている。
「……」
ルティが、息を呑む。
男の口が、かすかに動いた。
――かえ、り……たい。
その声は。
もう怪物の声ではなかった。
「……」
ルティは、一歩前へ出ようとする。
でも、その瞬間。
ぐっ、とバルドの手が強くなる。
「行きすぎるな」
低い声。
「……」
ルティが、はっとする。
そうだ。
帰る。
ちゃんと。
「……」
ルティは、その場で止まった。
無理に近づかない。
ひとりで飛び込まない。
その代わりに。
涙をこらえながら、まっすぐ言った。
「……いっしょに、かえろ」
その瞬間だった。
鐘守りの顔が、大きく歪んだ。
苦しそうに。
泣きそうに。
そして。
地下道の奥から。
ごおおおおお……!!
低い唸り声が響いた。
空気が、一気に凍りつく。
リオンの顔色が変わる。
「まずい」
「何!?」
セレナが振り向く。
リオンは、地下道のさらに奥を睨んでいた。
暗闇の向こう。
もっと深い場所。
「鐘守りは、番人だ」
低い声。
「つまり――」
その瞬間。
地下道の奥で。
巨大な“何か”が、ゆっくり目を開いた。
ぞわり、と。
世界そのものが、こちらを見返してきたみたいな感覚。
「っ……!」
ルティの身体が、震える。
鐘守りが、急に苦しそうに鐘を鳴らし始めた。
こん、こん、こん、こん――!!
そして。
初めて、はっきり叫ぶ。
――逃げろ!!
地下道が、大きく揺れた。




