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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第51話 夜明けの旅立ち


夜が、ゆっくりと薄れていく。


白樺亭の窓の向こうで、空が群青から灰色へ変わり始めていた。


まだ朝には早い。


町も静かだ。


パン屋も開いていない。


荷車の音もしない。


世界が、息を潜めているみたいな時間だった。


「……」


ルティは、二階の窓辺に立っていた。


小さな荷物を抱えている。


ミーシャが用意してくれた布袋。


中には着替えと、包帯と、小さな薬瓶。


それから。


焼きたての丸パン。


「……」


パンの匂いがする。


白樺亭の匂い。


ルティは、その袋をぎゅっと抱えた。


胸の奥が、少しだけ痛む。


怖い。


やっぱり怖い。


白樺亭を出る。


北へ行く。


ザーラの残した場所へ。


向こう側へ近づく。


「……」


でも。


今までと違う。


前みたいに、ひとりで暗い場所へ落ちていく感じじゃなかった。


ちゃんと、帰る場所がある。


だから今は、“行く”ことができる。


「……ルティ」


後ろから、やさしい声。


ミーシャだった。


朝の薄明かりの中で、少し無理をした笑顔をしている。


「準備、できた?」


「……うん」


ルティが小さく頷く。


ミーシャは、その返事を聞いても、すぐには笑わなかった。


ただ、じっとルティを見る。


まだ小さい身体。


細い腕。


包帯の巻かれた左手。


本当なら、旅になんて出してはいけない子どもだった。


「……」


ミーシャは、ゆっくりルティの前へしゃがみ込む。


そして、そっと頬へ触れた。


「ちゃんと帰ってくるのよ」


声が少し震えている。


「無茶しない」


「一人で行かない」


「怖かったら、ちゃんと怖いって言う」


「……」


「約束できる?」


ルティは、少しだけ目を伏せた。


それから。


小さく、でもはっきり頷く。


「……うん」


「……ちゃんとかえる」


ミーシャの目が、少しだけ潤む。


でも泣かなかった。


泣いたら、ルティがもっと不安になる気がした。


だから代わりに、額へ軽く触れる。


「いってらっしゃい」


「……いってきます」


その言葉が。


白樺亭の中へ静かに落ちた。


ルティは、ゆっくり階段を下りる。


一段ずつ。


木の軋む音。


手すりの感触。


全部、覚えておく。


帰ってくるために。


一階へ降りると、もう全員がいた。


バルド。


リオン。


セレナ。


ガイル。


リック。


オットー。


いつもより静かな顔をしている。


「遅え」


バルドが言う。


でも、その声は少し掠れていた。


「……ごめんなさい」


「謝るほどじゃねえ」


そう言いながら、バルドはルティの荷物を見る。


小さい。


あまりにも小さい。


こんな荷物一つで、北へ向かうのかと思うと、胸の奥が妙にざわついた。


「……」


リオンは、窓の外を見ていた。


空の色を確認するみたいに。


「そろそろ出る」


低い声。


「森へ入る前に、朝霧を抜けたい」


ガイルが頷く。


「北道は使わん。旧街道を迂回する」


「……」


セレナは、ルティの前へ歩いてくる。


そして、小さな紐を差し出した。


銀色の糸が編み込まれた、細い腕紐。


「これ」


「……?」


「境界除け……って言いたいところだけど、そんな便利なものじゃないわ」


少しだけ笑う。


「でも、触ってると少しだけ“こっち”を思い出しやすい」


ルティは、そっと受け取る。


冷たい。


でも、嫌な冷たさじゃなかった。


「……ありがとう」


「無くさないで」


「……うん」


セレナは、それから少しだけ迷ったあと、ルティの頭をそっと撫でた。


その手つきは、どこかぎこちなかった。


慣れていないのが分かる。


でも、やさしかった。


「今回は」


セレナが静かに言う。


「帰らせるから」


ルティは、少しだけ目を見開く。


その言葉の意味を、全部は理解できない。


でも。


セレナが本気だということだけは分かった。


「……うん」


その時。


リックが、わざとらしく咳払いをした。


「暗い暗い。朝から暗い」


バルドが睨む。


「お前が言うな」


「いや、こういう時はもっとこう、景気づけってもんがあるだろ」


リックは、棚の奥から小瓶を取り出した。


「おいオットー。旅立ちって言ったらこれだろ」


オットーが、静かに目を細める。


「朝から飲ませる気か」


「違えよ」


リックは笑う。


「景気づけだ」


小瓶の中には、少しだけ琥珀色の液体が入っていた。


バルドが顔をしかめる。


「馬鹿。ルティに飲ませんな」


「分かってるって」


リックは、自分でぐいっと飲み干した。


次の瞬間。


「っっっっ、辛っ!!」


「馬鹿だろお前」


バルドが即座に言う。


白樺亭の空気が、少しだけ緩む。


ルティが、小さく笑った。


それを見て、リックも笑う。


「その顔忘れんなよ」


「……?」


「帰ってくる顔だ」


その言葉に。


ルティの胸が、少しだけ熱くなる。


オットーが、静かに立ち上がった。


窓際の席から。


「……ルティ」


低い声。


ルティが振り向く。


オットーは、少しだけ考えるように沈黙して、それから言った。


「向こう側は、静かすぎる」


「……」


「だから、自分の声を忘れる」


ルティは、じっと聞いている。


「怖くなったら、声を出せ」


「……」


「独り言でもいい」


「帰りたいって、何回でも言え」


「……うん」


ルティが、小さく頷く。


オットーも、小さく頷き返した。


それは、境界から戻ってきた者同士にしか分からない重さを持ったやり取りだった。


「行くぞ」


リオンが、扉へ向かう。


その声で、空気が変わる。


本当に、始まる。


白樺亭の外。


北。


森。


鐘楼。


ザーラ。


全部が、現実として近づいてくる。


「……」


ルティの足が、一瞬だけ止まる。


怖い。


その時。


ごつ、と軽く頭を小突かれた。


「へぶ」


バルドだった。


「止まるな」


「……」


「帰ってくるんだろ」


ルティが、ゆっくり顔を上げる。


バルドは、いつも通り怖い顔をしていた。


でも。


その目は、ちゃんとこちらを見ていた。


「……うん」


小さく頷く。


「……かえる」


「なら行け」


その言葉で。


ルティの中の何かが、少しだけ前を向いた。


リオンが扉を開く。


冷たい朝の空気が流れ込む。


まだ夜の名残を残した風。


遠く、北の空は薄暗い。


まるで、そこだけ夜が残っているみたいに。


「……」


ルティは、一歩前へ出る。


白樺亭の敷居を越える。


その瞬間。


胸の奥で、小さく鐘が鳴った。


こん。


遠く。


壊れた音。


でも今度は、前みたいに“引かれる”感じではなかった。


まるで。


待っていたみたいな音だった。


「……ザーラ」


小さく名前を呼ぶ。


風が吹く。


北から。


森の匂いを運んでくる。


リオンが先頭へ立つ。


ガイルが周囲を見る。


セレナが、静かにルティの隣へ並ぶ。


バルドが、最後に白樺亭を振り返った。


窓辺。


ミーシャが立っている。


リックが隣で手を振っている。


オットーは、いつもの席から静かにこちらを見ていた。


帰る場所。


ちゃんとある。


「……」


バルドは、小さく息を吐く。


「絶対帰るぞ」


誰へ向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


でも。


ルティは、しっかり聞いていた。


「……うん」


小さな声。


でも。


その声は、朝の空気の中で、確かに前を向いていた。


そして。


白樺亭を背にした四人は、ゆっくり北への道を歩き始めた。


壊れた鐘の待つ場所へ。


ザーラの残した真実へ。


そして。


“帰ってくるための旅”へ。

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