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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第50話 帰る場所から


白樺亭の夜は、静かだった。


けれど、その静けさは、もう前と同じものではなかった。


皿の音が止み、客の声が消え、灯りが少しずつ落とされても、店の中にはまだ誰かの気配が残っている。


バルドが厨房を片付ける音。


ミーシャが布巾をたたむ音。


リックが椅子を動かす音。


オットーが窓際で、黙って酒の杯を置く音。


その一つ一つが、白樺亭をこちら側へ繋ぎ止めているようだった。


「……」


ルティは、食堂の隅に座っていた。


左腕には包帯が巻かれている。


痣は、まだ消えない。


けれど、今日は熱が少しだけ弱かった。


セレナに教わった通り、怖い時は怖いと言った。


帰りたい時は、帰りたいと言った。


一人で行かないと約束した。


それだけで、向こう側の冷たさは少し遠くなった気がした。


「……」


でも。


完全に消えたわけではない。


胸の奥。


耳の奥。


腕の奥。


そこに、まだ小さな音が残っていた。


こん。


こん。


こん。


扉を叩く音。


遠くて、弱くて、けれど確かに続いている音。


「……」


ルティは、顔を上げた。


窓を見る。


外は暗い。


町の灯りが遠くに滲んでいる。


「……きこえる」


小さく、つぶやく。


その声に、セレナが反応した。


「また?」


ルティは、少しだけ迷ってから頷いた。


「……うん」


「助けて、って?」


「……ちがう」


ルティは、耳を澄ませるように目を伏せる。


言葉は、はっきりしない。


ただの音ではない。


でも、声とも少し違う。


割れた鐘の響きみたいに、遠くで揺れている。


「……かね」


「鐘?」


リックが、思わず聞き返す。


ルティは、こくんと小さく頷く。


「……かね、なる」


「……でも」


少しだけ眉を寄せる。


「……こわれてる」


その瞬間。


セレナの顔色が変わった。


本当に、一瞬で。


淡い灰色の瞳が、静かに揺れる。


「……鐘」


低く、繰り返す。


ガイルも壁際で顔を上げた。


リオンは、ずっと黙っていたが、その金色の目だけがわずかに細くなる。


「……北の鐘楼か」


リオンが言った。


その声は、部屋の温度を少し下げた。


「北?」


バルドが眉をひそめる。


「なんだ、それは」


セレナは、すぐには答えなかった。


その表情には、迷いがあった。


話すべきか。


まだ隠すべきか。


そんな迷い。


けれど、ルティがこちらを見ていることに気づくと、ゆっくり息を吐いた。


「昔、境界が大きく開いた場所があるの」


静かな声だった。


「この町の北。森を越えた先に、古い鐘楼がある」


「……」


「今はもう、使われていない。村も消えて、道も半分埋もれている」


リックが、顔をしかめる。


「なんだよ、そのいかにもな場所」


誰も笑わなかった。


セレナは続ける。


「ザーラが以前、向かった事がある場所よ」


その名前が出た瞬間、白樺亭の空気が変わった。


ルティの手が、膝の上で小さく動く。


「……ザーラ」


「ええ」


セレナは、ルティを見る。


「あなたが教会で会ったと言ったザーラは、たぶん、まだ完全には消えていない」


「……いる」


ルティは、小さく言った。


迷いなく。


「……でも、さわれない」


「そうね」


セレナの声が、ほんの少しやわらかくなる。


「ザーラは、境界の向こう側に残っている。けれど、あなたへ声を届けられるほど、まだこちら側を覚えている」


バルドが、腕を組む。


「で、その鐘楼とやらに何がある」


セレナは、少しだけ黙った。


その代わりに、リオンが答える。


「封じたものの中心だ」


店の中が、静かになる。


「境界は、ただ開いているわけじゃない。九年前、ザーラが閉じた」


リオンの声は淡々としている。


けれど、その奥には重いものがあった。


「閉じたが、消せなかった」


「……」


「だから、向こう側には今も残っている」


リックが喉を鳴らす。


「何が」


リオンは、すぐには答えない。


視線だけが、窓の外へ向く。


「忘れられたもの」


「……は?」


「人だったもの。記憶だったもの。戻れなかったもの」


その言葉に、オットーの顔がわずかに強張った。


彼は、一度そこへ落ちかけている。


暗く、寒く、自分が自分でなくなる場所。


「……」


オットーは、無意識に杯を握りしめた。


リオンは続ける。


「それを押し込めたまま、九年が経った。だが今、ルティが向こう側へ干渉したことで、封じ目が反応している」


バルドの目が鋭くなる。


「つまり、ルティのせいだって言いたいのか」


「違う」


セレナが、即座に言った。


その声は、珍しく強かった。


「そうじゃない」


バルドが、セレナを見る。


セレナは、まっすぐ受け止めた。


「封じ目は、最初から限界だった。ルティがいなくても、いずれ綻んだ」


「……」


「ただ、ルティはそれに気づける。触れられる。だから向こう側も、ルティを見つけた」


ルティは、黙って聞いていた。


難しい言葉が多い。


でも、分かったことがある。


向こう側は、まだ終わっていない。


ザーラが閉じたものは、まだそこにある。


そして。


このまま白樺亭にいるだけでは、たぶん何も分からない。


「……いかないと」


小さく、ルティが言った。


全員の視線が向く。


バルドの顔が、はっきり険しくなる。


「駄目だ」


即答だった。


「……」


ルティは、少しだけ目を瞬かせる。


バルドは、腕を組んだまま続ける。


「まだ熱も下がりきってねえ。腕もそのままだ。昨日まで寝込んでたガキを、そんな場所に連れていけるか」


「……でも」


「でもじゃねえ」


「……」


ルティは、口を閉じる。


言いたいことがある。


でも、うまく出てこない。


胸の奥に、鐘の音がまだ残っている。


壊れた鐘。


遠い音。


助けて、ではない。


呼んでいる、でもない。


もっと違う。


そこに来なければ、分からない。


そんな音。


「……」


セレナが、静かにルティを見る。


「ルティ」


「……」


「何が聞こえるのか、言える?」


ルティは、少しだけ考えた。


目を伏せる。


音を追う。


こん。


こん。


こん。


鐘の音の奥。


かすれた声。


誰かの記憶。


「……あかない」


「……?」


「……かぎ、ない」


セレナの顔が、こわばる。


リオンの目が、わずかに動いた。


「……続けて」


セレナが言う。


ルティは、苦しそうに眉を寄せる。


「……かね」


「……きた」


「……ザーラ」


「……まってる」


最後の言葉で、セレナが息を飲んだ。


「……待ってる」


かすれた声で繰り返す。


「ザーラが?」


ルティは、小さく頷く。


「……うん」


「……でも」


小さな手が、包帯の巻かれた腕を押さえる。


「……こわい」


「……こわい、けど」


言葉が途切れる。


バルドが、口を開きかけた。


だが、その前にルティが言った。


「……しらないと」


「……わたし」


「……また、ひっぱられる」


その言葉で、バルドが黙った。


ルティは、ゆっくり顔を上げる。


紫の瞳が、まだ少し怯えている。


でも、逃げてはいなかった。


「……わからないままだと」


「……こわいまま」


「……」


「……だから」


震える声。


でも、はっきりと。


「……しりたい」


白樺亭が、静かになった。


その沈黙は、さっきまでの恐怖とは違う。


誰もが、ルティの言葉を受け止めていた。


怖いから逃げるのではなく。


怖いから、知りに行く。


それは、小さな子どもが口にするには重すぎる決意だった。


けれど、ルティはもう、ただ守られるだけの子ではなかった。


自分でここにいたいと言った。


だからこそ。


ここを守るために、知らなければならないことがある。


セレナは、長く息を吐いた。


「……そうね」


静かな声。


「ここにいるだけでは、もう守れない」


ミーシャが、顔を上げる。


「セレナさん……」


「向こう側は、ルティの場所を知った。白樺亭を探っている。ここで待つだけなら、次はもっと深く入ってくる」


「……」


「でも、北の鐘楼に残っている封じ目を調べれば、向こう側が何を求めているのか分かるかもしれない」


リオンが続ける。


「そして、ザーラが何を閉じたのかもな」


ザーラ。


その名前が、また落ちる。


ルティは、胸を押さえる。


「……ザーラ」


小さく呼ぶ。


声に応えるものはない。


けれど、遠くの鐘の音が、ほんの少しだけ揺れた気がした。


バルドは、深く息を吐いた。


長い。


重いため息だった。


「……行くしかねえのか」


「行かなければ、ここが狙われ続ける」


リオンが答える。


「町も巻き込まれる」


その言葉で、ミーシャの顔色が変わった。


リックも黙る。


オットーは、窓際で静かに目を伏せた。


白樺亭だけではない。


この町も。


毎日パンを買いに来る人も。


笑って食事をする客も。


何も知らない子どもたちも。


全部、向こう側へ近づいている。


「……」


ルティは、ぎゅっと手を握った。


「……まもる」


小さく言う。


バルドが、ルティを見る。


「……お前一人でか」


「……ちがう」


ルティは首を振る。


「……ひとり、いかない」


その言葉に、セレナの表情が少しだけ緩んだ。


ちゃんと覚えている。


帰るための糸を。


ルティは、ゆっくり周りを見る。


バルド。


セレナ。


リオン。


ガイル。


ミーシャ。


リック。


オットー。


ここにいる人たち。


自分を呼んでくれる人たち。


「……いっしょ」


小さく言う。


「……いって」


「……かえる」


「……ここに」


その言葉は、以前のルティなら出なかった言葉だった。


助けたい。


行かなきゃ。


それだけではない。


一緒に行って、一緒に帰る。


その形を、ルティは初めて自分の中に持とうとしていた。


バルドが、乱暴に頭をかく。


「……くそ」


低く吐き捨てる。


「そういう顔すんな」


ルティが首をかしげる。


「……?」


「止めにくくなるだろうが」


リックが、少しだけ笑った。


「もう止められねえんじゃねえの」


「うるせえ」


バルドは睨む。


けれど、その目はもう、完全な拒絶ではなかった。


セレナが、静かに言う。


「全員では行けないわ」


「白樺亭を空にするわけにはいかない」


ミーシャが、すぐに頷いた。


「私は残る」


その声は震えていた。


でも、迷いはなかった。


「ここを開けておく。帰ってくる場所がなかったら困るもの」


その言葉に、ルティの目が少しだけ揺れる。


「……ミーシャ」


「帰ってきたら、ご飯作るから」


ミーシャは、涙をこらえるように笑った。


「だから、ちゃんと帰ってきて」


「……うん」


ルティは、小さく頷く。


オットーが、静かに口を開いた。


「……俺も残る」


リックが驚いて見る。


「お前、行かねえのか」


「戻ってきたばかりだ」


オットーは、窓際の席に手を置く。


「ここに誰かがいないと、戻る場所が薄くなる」


その言葉に、セレナが静かに頷いた。


「正しいわ」


「帰る場所を守る人も必要」


リックが、少しだけ気まずそうに頭をかいた。


「じゃあ俺も残るか」


バルドが即座に言う。


「お前は残れ」


「なんで即答なんだよ」


「店を任せられる奴が足りねえ」


「俺、任せられる側!?」


「騒ぐな。客が逃げる」


少しだけ笑いが起きる。


本当に少しだけ。


でも、それで良かった。


白樺亭らしい音だった。


ガイルが、壁にもたれたまま低く言う。


「俺は行く」


ミーシャが、少しだけ目を伏せる。


ガイルは、それに気づいていた。


だが、言葉は少ない。


「森の道は分かる。北へ抜けるなら、俺が必要だ」


ミーシャは、しばらく黙っていた。


それから、静かに頷く。


「……ちゃんと帰ってきて」


「……ああ」


短いやり取り。


それだけで、十分だった。


リオンが言う。


「俺が先導する」


「鐘楼周辺は、古い境界の跡が多い。普通の道ではない」


セレナも頷く。


「私も行く」


バルドが、セレナを見る。


「当然みたいな顔してるな」


「当然よ」


セレナは、淡く笑う。


「今度は、帰らせる側にいるって決めたから」


その言葉に、ルティがセレナを見る。


セレナは、ルティへ視線を返した。


「一人で行かない約束、覚えてる?」


「……うん」


「なら、私も行く」


「……うん」


最後に、バルドが深く息を吐いた。


「俺も行く」


ミーシャが驚く。


「店は?」


「リックがいる」


「さっき任せられねえみたいな顔してたじゃねえか!」


リックが声を上げる。


バルドは無視した。


「こいつを外に出すなら、俺が見てる」


ルティを見る。


「無茶しそうになったら、首根っこ掴んででも引き戻す」


ルティは、少しだけ考える。


「……くび、いたい」


「なら無茶すんな」


「……うん」


小さな返事。


それを聞いて、バルドは少しだけ目を逸らした。


その顔を見て、ミーシャが小さく笑う。


泣きそうな笑顔だった。


「……お願いね」


バルドは、答えなかった。


ただ、短く頷く。


外では、風が吹いていた。


北の方角から。


冷たく。


遠く。


まるで、壊れた鐘の音を運んでくるみたいに。


「……」


ルティは、窓の外を見る。


怖い。


やっぱり怖い。


白樺亭を出るのも。


北へ向かうのも。


ザーラが待っているかもしれない場所へ行くのも。


全部、怖い。


でも。


「……」


背中に、白樺亭の気配がある。


ここには、帰ってきていい。


そう言ってくれる人がいる。


だから、行ける。


「……わたし」


小さく言う。


みんなが、ルティを見る。


「……いく」


「……しって」


「……かえる」


その言葉は短かった。


けれど、そこには今までにない強さがあった。


セレナが、静かに目を伏せる。


リオンが、窓の外を見たまま言う。


「夜明けに出る」


ガイルが頷く。


バルドは、ルティの前にパンを一つ置いた。


「食え」


「……いま?」


「今だ」


「旅に出るなら食え」


ルティは、少しだけ目を丸くした。


それから、パンを両手で持つ。


あたたかい。


白樺亭の匂いがする。


「……」


一口かじる。


やわらかい。


おいしい。


その味を、覚えておく。


帰るために。


「……」


遠くで。


誰にも聞こえないほど小さく。


壊れた鐘が、鳴った気がした。

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