第47話 帰って来るために
昼下がりの白樺亭には、やわらかなパンの匂いが広がっていた。
焼きたての熱と、小麦の甘い香り。
窓から差し込む陽の光が、木の床を薄く照らしている。
誰かが皿を置く音。
常連が笑う声。
ミーシャが厨房で何かを混ぜている音。
その全部が、静かに流れていた。
「……」
ルティは、食堂の隅の席に座っていた。
左腕には、まだ包帯が巻かれている。
黒い痣は消えていない。
包帯の下で、皮膚の奥がじんわり熱を持っている。
でも今日は、少しだけ顔色が良かった。
ミーシャに無理やり食べさせられたスープのおかげかもしれない。
「ちゃんと食べると、人間はちょっと元気になるのよ」
そう言われた。
「……」
ルティは、テーブルの上のカップを両手で包む。
あたたかい。
その熱を感じていると、向こう側の冷たさを少し忘れられた。
「……感じる?」
向かいから、静かな声がした。
ルティが顔を上げる。
セレナだった。
灰色の髪。
淡い灰色の瞳。
今日の彼女は、前より少しだけ柔らかい空気をまとっていた。
けれど、その目は真剣だった。
観察する目ではない。
教えようとしている目だった。
「……なに」
ルティが小さく聞く。
セレナは、ルティの持つカップを見る。
「その温かさ」
「……」
「ちゃんと感じる?」
ルティは、少しだけきょとんとする。
でも、こくりと頷いた。
「……あったかい」
「そう」
セレナも、小さく頷く。
「それを覚えておいて」
「……?」
ルティが首をかしげる。
セレナは、少しだけ身体を前へ寄せた。
「ルティ」
静かな声。
「あなた、これからまた向こう側を見るわ」
「……」
「たぶん、もう避けられない」
その言葉に。
ルティの指先が、少しだけ強くカップを握る。
怖い。
そう思った。
また、あの冷たい場所を見る。
また、見られる。
また、誰かが消えるかもしれない。
「……」
セレナは、その反応を見ながら続ける。
「だから、覚えなきゃいけないの」
「何を?」
「帰ってくる方法」
その言葉に。
ルティが、少しだけ目を開く。
「……かえる、ほうほう」
「ええ」
セレナは頷く。
「境界に近づく人はね、向こうへ行く方法ばかり覚えてしまうの」
「……」
「どうやって触るか」
「どうやって閉じるか」
「どうやって助けるか」
「そういうことばかり考える」
その声は、とても静かだった。
でも、そこには後悔が混じっていた。
「でも、本当に大事なのは逆」
セレナは、ルティを見る。
「どうやって帰ってくるかを、最初に決めておくこと」
「……」
ルティは、じっと聞いている。
「例えばね」
セレナが、ゆっくり言葉を選ぶ。
「深い水の中へ潜る時、人は必ず上を見るでしょう?」
「……うえ」
「ええ。どこへ戻るか、分からなくならないように」
「……」
「境界も同じ」
その言葉で。
ルティの顔が、少しだけ真剣になる。
「向こう側は、冷たい」
「静かで、暗くて、だんだん自分が分からなくなる」
「……」
オットーの話と同じだった。
「だからね」
セレナは続ける。
「向こうへ触れる前に、“帰るもの”を自分の中へ入れておくの」
「……?」
「匂いでもいい」
「声でもいい」
「触った感覚でもいい」
「絶対に忘れたくないものを、先に握っておくの」
ルティは、少しだけ考える。
「……パン」
セレナが、少し笑う。
「うん」
「それでいい」
「……」
「パンの匂い」
「ミーシャの声」
「バルドの怒鳴り声」
「リックの笑い方」
「そういう、“帰る場所の形”を覚えておくの」
「……」
ルティの目が、少しずつ開いていく。
「境界は、空っぽになった人を引く」
セレナの声が、少し低くなる。
「だから逆に言えば、“帰りたい”でいっぱいの人は、簡単には落ちない」
「……かえりたい」
「ええ」
セレナは頷く。
「その気持ちは、弱さじゃない」
「向こう側から戻るための、いちばん強い力よ」
「……」
ルティは、自分の胸へそっと触れる。
帰りたい。
白樺亭へ。
みんなのいる場所へ。
その気持ちは、ずっとあった。
「……でも」
小さく言う。
「……こわいと、わすれそう」
セレナの目が、少しだけやわらかくなる。
「だから、一人で行かないの」
「……」
「怖くなった時、自分で思い出せなくなるなら、誰かに呼んでもらえばいい」
ルティが、少しだけ顔を上げる。
「……よぶ」
「ええ」
「名前を呼ぶの」
「帰ってこいって言うの」
「お前はここだって、何度も繋ぎ止めるの」
その言葉に。
ルティの頭の中へ、あの時の声が浮かぶ。
――帰ってこい。
バルドの声。
怒ったみたいな声。
でも、震えていた声。
「……」
ルティの胸が、少し熱くなる。
「ザーラはね」
セレナが静かに言う。
「たぶん、自分一人で戻ろうとしすぎた」
「……」
「誰かを助けることばかり考えて、自分が帰ることを後回しにした」
その声には、痛みがあった。
長い間、抱え続けてきた後悔。
「だからルティ」
セレナは、まっすぐルティを見る。
「あなたは、“帰る”を先に考えて」
「……」
「助けるために行くんじゃない」
「帰ってくるために行くの」
その言葉は、ルティの中へ深く落ちた。
「……かえってくる、ため」
「そう」
「帰るって決めてから、手を伸ばすの」
「……」
ルティは、静かに考える。
今までは違った。
誰かが消えそうになると、それしか見えなくなる。
オットーの時もそうだった。
ただ、行かなきゃと思った。
でも。
「……」
帰る。
最初に、それを決める。
「……むずかしい」
正直に言う。
セレナは、小さく笑った。
「難しいわ」
「でも、それを覚えないと、あなたは自分を削り続ける」
「……」
「助けるたびに、“帰りたい”を薄くしてしまう」
その言葉に。
ルティの身体が、小さく震えた。
それは、分かる気がした。
向こう側へ触れている時。
自分がだんだん薄くなっていく感覚があった。
「だからね」
セレナは、そっとテーブルへ手を置く。
「人間らしいことを、ちゃんとやるの」
「……?」
「食べる」
「寝る」
「笑う」
「怒る」
「寂しいって言う」
「怖いって言う」
「帰りたいって言う」
「……」
「それ全部、“こっち側の自分”を強くすることだから」
ルティは、じっと聞いていた。
難しい。
でも、分かる。
向こう側には、そういうものがなかった。
冷たくて、静かで、何もなくなる場所だった。
「……じゃあ」
ルティが、小さく聞く。
「……わらうのも、たいせつ?」
セレナが、少し驚いた顔をする。
それから。
ほんの少しだけ、泣きそうに笑った。
「ええ」
静かな声。
「すごく大切」
「……」
「だから白樺亭は、強いのよ」
ルティが、目を瞬かせる。
セレナは、階下を見た。
リックが笑っている。
バルドが怒鳴っている。
ミーシャが呆れている。
オットーが酒を飲んでいる。
どうでもいいような、普通の光景。
でも。
「ここには、“生きてる音”がある」
「……」
「境界が嫌うものが、ちゃんとある」
「だからあなたは、ここへ帰ってこられる」
ルティは、ゆっくりとカップを見下ろす。
まだ、あたたかい。
「……」
そして、小さく呟いた。
「……かえる」
「うん」
「……ちゃんと」
セレナが頷く。
「何度でも帰ってきなさい」
「それが、あなたの戦い方よ」
その言葉を聞いた時。
ルティの中で、何かが少し変わった。
今までは、“行かなきゃ”だけだった。
でも今は違う。
帰ってくる。
ちゃんと戻る。
そのために行く。
「……」
ルティは、包帯の巻かれた腕をそっと抱える。
黒い痣は、まだ消えない。
怖いものも、まだいる。
でも。
「……わたし」
小さく言う。
「……ちゃんと、かえる」
セレナは、その言葉を聞いて、ゆっくり目を閉じた。
まるで。
長い間、誰にも言ってほしかった言葉を、ようやく聞けたみたいに。
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