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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第48話 戻るために


夜の白樺亭は、静かだった。


昼間の喧騒が嘘みたいに、食堂には小さな灯りだけが残っている。


窓の外では風が吹いていた。


雨は降っていない。


けれど、空気は冷たい。


「……」


ルティは、カウンターの端に座っていた。


小さな両手で、温かいカップを持っている。


セレナの話を聞いたあとから、ずっと考えていた。


“帰ってくるために行く”。


その言葉。


「……」


今までは違った。


誰かが消えそうになると、それしか見えなくなる。


怖いとか、自分が戻れるかとか、考える余裕なんてなかった。


でも。


「……」


帰る。


ちゃんと。


ここへ。


そう思うだけで、胸の奥に少しだけ灯りが残る気がした。


「冷めるぞ」


低い声。


バルドだった。


厨房から出てきて、乱暴に皿を置く。


「……のむ」


ルティが、小さく答える。


バルドは、その顔をちらりと見る。


少し前より、顔色はいい。


けれど。


まだ痣は消えない。


左腕の包帯を見るたび、胸の奥が重くなる。


「……」


バルドは、何も言わずにルティの前へ追加のパンを置いた。


ルティが、少しだけ目を丸くする。


「……おおい」


「食え」


「……」


「戻ってくるには体力いるんだろ」


ぶっきらぼうな言い方。


でも。


セレナが、小さく笑った。


「ちゃんと覚えてるじゃない」


「うるせえ」


バルドが眉をしかめる。


ルティは、そのやり取りを見て、少しだけ口元を緩めた。


その時だった。


――かたん。


小さな音。


誰かが椅子を引いたみたいな音だった。


「……?」


リックが顔を上げる。


窓際。


いつもの席。


オットーの向かい側。


誰も座っていないはずの椅子が、ゆっくり揺れていた。


「……おい」


リックの声が低くなる。


風じゃない。


窓は閉まっている。


それなのに。


椅子が、ひとりでに少しずつ動いている。


「……」


空気が、冷える。


ルティの腕が、じわりと熱を持った。


包帯の下。


黒い痣が、脈打つ。


「……っ」


小さく肩が震える。


セレナが、すぐに気づいた。


「ルティ」


静かな声。


「呼吸して」


「……」


ルティは、無意識に息を止めていたことに気づく。


ゆっくり息を吸う。


でも。


冷たい。


店の奥から、あの感覚が近づいてくる。


「……」


窓際の空気が、少し歪む。


そこに、“何か”がいる。


完全には見えない。


でも、いる。


「バルド」


ガイルの声が低くなる。


「客を下げろ」


「……ああ」


バルドが即座に動く。


「今日は閉店だ。全員帰れ」


常連たちも、空気で察していた。


文句を言う者はいない。


ざわつきながら、席を立つ。


けれど、その時だった。


「……あ?」


一人の男が、ふらりと止まる。


若い行商人だった。


「おい、大丈夫か」


リックが声をかける。


返事がない。


男は、ぼんやり窓の方を見ていた。


焦点の合わない目。


そして。


ゆっくり、一歩。


窓際へ近づく。


「っ、止まれ!」


リックが腕を掴もうとする。


その瞬間。


男の身体が、ぶれる。


「!?」


空気へ溶けるみたいに、一瞬だけ輪郭が薄くなった。


ルティの息が止まる。


「……っ」


消える。


あの時と同じ。


オットーの時と。


「ルティ!」


セレナの声が飛ぶ。


「見すぎない!」


「……!」


ルティが、はっとする。


今までなら。


もう飛び込んでいた。


向こう側へ。


消えかけた人を掴みに。


でも。


「……っ」


怖い。


冷たい。


また引かれる。


帰れなくなる。


「……」


ルティの身体が震える。


窓際の歪みが、少しずつ広がる。


男が、さらに引かれていく。


「くそっ!」


リックが腕を掴んでいるのに、感触が薄い。


まるで煙を掴んでいるみたいだった。


「ルティ!」


今度は、バルドの声。


強い声。


「こっち見ろ!」


「……っ」


ルティが顔を上げる。


バルドが、まっすぐこちらを見ている。


「お前、一人で行くな」


低い声。


「まず帰る方考えろ」


「……」


セレナの言葉が、頭の中で重なる。


――帰ってくるために行くの。


「……」


ルティの呼吸が、少しだけ戻る。


怖い。


でも。


今、自分には声がある。


「ルティ」


ミーシャが、後ろから肩を抱く。


「大丈夫」


震えている。


ミーシャも怖い。


それでも、離さない。


「……」


ルティは、ぎゅっとカップを握った。


まだ、あたたかい。


パンの匂いがする。


バルドの声が聞こえる。


リックが悪態をついている。


ミーシャの手がある。


「……」


ここ。


帰る場所。


「……」


ルティは、小さく息を吸った。


それから。


窓際を見た。


「……かえって」


小さな声。


でも、今までよりずっとはっきりしていた。


「……ここ、だめ」


その瞬間。


左腕の痣が、どくん、と脈打つ。


黒の奥で、淡い紫が光る。


「っ……!」


空気が震える。


窓際の歪みが、びき、と揺れる。


男の身体が、さらに薄くなる。


「ルティ!」


セレナの声。


「名前を!」


「……!」


ルティが、はっと顔を上げる。


帰るための糸。


呼ぶ。


繋ぎ止める。


「……なまえ」


男の名前。


知らない。


でも。


「リック!」


ルティが叫ぶ。


「……なまえ!」


「っ、お、おう!」


リックが、一瞬で理解する。


「ダン!!」


男へ向かって怒鳴る。


「聞こえてんだろ、ダン!!」


男の身体が、びくりと震える。


「帰ってこい!!」


バルドも声を張る。


「そこじゃねえ!!」


「ミーシャ!」


「ダンさん!!」


「こっち見て!!」


声が重なる。


白樺亭の中へ。


戻れと。


ここだと。


何度も。


何度も。


「……っ」


ルティの視界が揺れる。


冷たい場所が、引っ張る。


でも。


今までと違う。


一人じゃない。


「……」


ルティは、震える声で言う。


「……かえって」


「……ここ」


「……ある」


その瞬間。


窓際の歪みが、大きく軋んだ。


ばきっ――!!


窓ガラスへ、黒い霜が一気に走る。


「っ!!」


でも。


今度は広がらない。


紫の光が、痣の奥で脈打つ。


押し返すみたいに。


「……っ、あ……!」


男――ダンの身体が、どさりと床へ倒れ込んだ。


「ダン!!」


リックが駆け寄る。


肩を掴む。


冷たい。


でも、ちゃんといる。


消えていない。


「……」


ダンが、ゆっくり目を開ける。


「……あれ」


かすれた声。


「……なんで、床」


その瞬間。


店の空気が、一気に戻った。


「っ、ばかやろう!!」


リックが怒鳴る。


「心配かけんな!!」


「え!? 何!?」


ダンは完全に混乱している。


その様子を見た瞬間。


ルティの身体から、力が抜けた。


「……っ」


ふらりと揺れる。


でも。


倒れる前に。


大きな手が支えた。


「……よくやった」


バルドだった。


低い声。


でも、今までよりずっとやわらかい。


「……」


ルティは、ぼんやりバルドを見る。


怖かった。


すごく。


でも。


「……」


帰ってきた。


ちゃんと。


「……かえれた」


小さく呟く。


セレナが、その声を聞いて、静かに息を吐いた。


それから。


ほんの少しだけ笑う。


「ええ」


やさしい声だった。


「今のが、“戻ってくる”ってことよ」


ルティは、まだ少し震えている手を見る。


黒い痣。


消えない。


怖いものも、消えない。


でも。


「……」


その手を。


今は、誰かが握っている。


一人じゃない。


その感覚が。


向こう側の冷たさより、ずっと強く残っていた。

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