第46話 セレナの知るもの
白樺亭は、少しずつ元の音を取り戻そうとしていた。
朝になればパンを焼く。
客が来れば席へ通す。
皿が空けば下げる。
床が汚れれば拭く。
それは当たり前のことだった。
けれど、その当たり前の一つ一つを、今は誰もが少しだけ大事に扱っていた。
「……」
ルティは、二階の窓辺に座っていた。
まだ本調子ではない。
顔色も白い。
左腕には布が巻かれていて、その下には黒い痣が残っている。
それでも、今日は起きていた。
毛布を膝にかけ、両手でカップを持ち、階下から聞こえてくる音をじっと聞いている。
皿の音。
リックの声。
バルドの怒る声。
ミーシャが誰かに笑っている声。
「……」
その音があるだけで、胸の奥が少し落ち着いた。
怖いものは、まだいる。
向こう側から見られている感覚も、完全には消えていない。
けれど。
ここには、音がある。
誰かがいる。
それだけで、ルティはまだ、こちら側にいられる気がした。
「……ここ」
小さく、つぶやく。
「……いる」
その言葉を、自分の中でもう一度確かめるように。
その時だった。
階下の音が、ふっと変わった。
騒がしいわけではない。
何かが壊れたわけでもない。
ただ、空気が少しだけ固くなった。
「……?」
ルティは、顔を上げる。
扉の開く音。
続いて、低い声。
「……リオン」
バルドの声だった。
警戒している。
それが分かった。
ルティは、ゆっくりと立ち上がろうとして、すぐに腕の痛みに顔をしかめた。
「……っ」
それでも、止まらない。
毛布を引きずるようにして、部屋の扉へ向かう。
その途中で、シェリーが気づいて慌てて駆け寄った。
「ルティ、まだ寝てなきゃだめ」
「……した」
「下?」
「……うん」
「……」
シェリーは困った顔をしたが、ルティの目を見て、止めても無駄だと悟った。
「じゃあ、ゆっくりね」
「……うん」
小さな足で、階段を下りる。
一段ずつ。
下へ近づくほど、空気の重さがはっきりしていった。
白樺亭の食堂には、リオンが立っていた。
黒い外套。
闇に紛れるような服。
首筋へ少しかかる黒髪。
静かな金色の目。
その姿は、昼の店の中に立っているのに、どこか夜を連れてきたみたいだった。
そして、その少し後ろに。
セレナがいた。
灰色の外套をまとい、銀灰色の髪を肩へ流している。
淡い灰色の瞳は、いつものように静かだった。
けれど、今日は違う。
余裕がない。
少なくとも、ルティにはそう見えた。
「……」
セレナの視線が、階段を下りてくるルティへ向く。
その瞬間。
彼女の表情が、はっきり変わった。
「……見せて」
短い声だった。
ルティは、少しだけ首をかしげる。
「……?」
「腕」
セレナが、一歩近づく。
その動きは速くない。
けれど、迷いがなかった。
バルドが間に入る。
「待て」
低い声。
「いきなり何だ」
「確認するだけ」
「その顔でか」
バルドの目が細くなる。
「ろくな話じゃねえだろ」
セレナは、バルドを見た。
淡い灰色の瞳。
冷静で、疲れていて、でも今はその奥に焦りがある。
「ろくな話じゃないから、確認するの」
「……」
バルドは言葉を詰まらせる。
リオンは何も言わない。
ただ、ルティを見ている。
その目はいつも通り静かだった。
けれど、その静けさが逆に怖い。
「……ルティ」
リオンが低く呼ぶ。
「腕を」
ルティは少し迷った。
それから、小さくうなずく。
「……うん」
シェリーがそっと包帯をほどく。
白い布の下から、細い腕が現れる。
指先から手首へ。
そこからさらに少し上まで。
黒い痣が、皮膚の下に沈むように広がっている。
ただ黒いだけではない。
太い血管の通る場所だけが濃く、指先の方はぼんやり滲んでいる。
そして、その黒の奥で。
本当にかすかに。
淡い紫が、内側から光っていた。
「……」
セレナの顔から、血の気が引いた。
それは、本当に一瞬だった。
でも、確かに。
「……どうして」
かすれた声。
「どうして、ここまで……」
バルドの表情が険しくなる。
「どういう意味だ」
セレナはすぐには答えなかった。
ルティの腕を見たまま、唇を固く結んでいる。
その顔は、ただの観測者の顔ではなかった。
知っている者の顔だった。
見たくないものを、また見てしまった者の顔だった。
「……紫が出てる」
セレナが言う。
「黒だけなら、まだ境界病の範囲だった」
「……」
「でも紫は違う」
ミーシャが、息を飲む。
「違うって……悪いの?」
セレナは、少しだけ目を伏せる。
「悪い、だけじゃない」
「……」
「だから厄介なの」
その言い方が、妙に重かった。
バルドが苛立つ。
「分かるように言え」
「ルティは、ただ侵食されてるんじゃない」
セレナは、ゆっくり言った。
「境界に、触り返してる」
店の中が静まり返る。
リックが小さく呟く。
「触り返す?」
「境界は、人を引く」
セレナは続ける。
「普通は、それで終わり。飲まれて、消えて、向こうへ落ちる」
「……」
「でも、この子は戻った。自分だけじゃなく、他人まで連れて帰った」
セレナの視線が、オットーへ向く。
オットーは、黙って頷いた。
「……暗い場所から、呼ばれた」
低い声。
「ルティに」
セレナは、その言葉を聞いて、ほんの少しだけ表情を歪めた。
「それは、奇跡みたいなものよ」
「なら、いいことじゃねえか」
リックが言う。
声には、希望を掴もうとする必死さがあった。
「戻せたんだろ?」
「ええ」
セレナは、静かに頷いた。
「戻せた」
そして。
「でも、向こう側も、この子を覚えた」
その言葉で、空気が冷えた。
ルティは、自分の腕を見る。
黒い痣。
淡い紫。
それが、自分の中で何かを伝えているみたいに、かすかに熱い。
「……みつかった」
小さく言う。
セレナの目が、ルティへ戻る。
「……そう」
声がやわらかくなる。
「見つかった」
「……」
「怖かったでしょう」
その言葉に。
ルティは、少しだけ固まった。
怖かったでしょう。
そう真正面から言われることに、慣れていなかった。
「……」
しばらくして。
小さくうなずく。
「……こわい」
「……」
セレナの顔が、痛そうに歪んだ。
それは、ルティが初めて見る表情だった。
冷静な人だと思っていた。
リオンと同じように、境界のことを知っていて、大人で、遠くから見ている人。
でも今のセレナは、違った。
ルティを見て、苦しそうな顔をしている。
「……ごめん」
セレナが、ぽつりと言った。
ルティは、首をかしげる。
「……?」
「もっと早く来るべきだった」
リオンが、わずかに視線を動かす。
「セレナ」
「分かってる」
セレナは、リオンを遮った。
「分かってるけど、言わせて」
そして、ルティへ視線を戻す。
「あなたみたいに境界へ触れて、戻れなくなった人を、私は前にも見たことがあるの」
白樺亭の空気が、変わった。
リオンの目が、わずかに細くなる。
ガイルも、黙ってセレナを見た。
セレナは、少しだけ息を吸った。
「その人も、境界に触れた」
「最初は、黒い痣だけだった」
「でも、ある日、紫の光が出た」
「……」
ルティは、じっと聞いている。
全部は分からない。
でも、その声が重いことは分かった。
「その人は、優しかった」
セレナの声が少しだけ低くなる。
「森で薬師のように暮らしながら、傷ついた人や迷い込んだ人を放っておけなかった」
「消えかけた人を見つけると、何度も手を伸ばした」
「……」
「でも、助けるたびに、向こう側が近くなった」
ミーシャの目に涙が浮かぶ。
バルドは黙っている。
「その人は最後に、境界を閉じた」
セレナの声が、かすかに震えた。
「たくさんの人を守った」
「……」
「でも、帰ってこなかった」
ルティの胸が、きゅっと痛んだ。
「……」
ザーラ。
なぜか、その名前が浮かんだ。
まだ何も聞いていないのに。
「……そのひと」
ルティが、小さく言う。
「……ザーラ?」
その瞬間。
セレナの顔が、完全に止まった。
リオンの空気も変わった。
ガイルが、目を伏せる。
「……あなた」
セレナが、かすれた声を出す。
「その名前を、どこで」
「……あった」
ルティは、ゆっくり言う。
「……教会」
「……ひかり」
「……さわれない」
「……でも、いた」
セレナの淡い灰色の瞳が、大きく揺れた。
それまで保っていたものが、崩れかけるように。
「……まだ」
声が震える。
「まだ、残ってるの……?」
誰も、すぐには答えられなかった。
ルティは、少し考える。
それから、小さくうなずいた。
「……うん」
「……いる」
その一言で。
セレナは、唇を押さえた。
泣きそうな顔だった。
でも、泣かなかった。
泣き方を忘れてしまった人みたいに。
「……そう」
小さく、笑おうとする。
「……あの子、まだ……」
声が途切れる。
リオンが、静かに目を伏せた。
バルドは、その様子を見ていた。
「お前」
バルドが低く言う。
「ザーラを知ってるのか」
セレナは、少しだけ間を置いてから頷いた。
「知ってる」
「……」
「私の、友達だった」
白樺亭が静かになる。
セレナの声は、淡々としていた。
でも、その淡々さがかえって痛かった。
「ザーラは、少女の頃に家を追われて、長く森で暮らしていた」
「薬師として生きながら、境界を調べていた」
「止める方法を探していたの」
「……」
「そして、誰よりも人を守りたがった」
ルティは、黙って聞いている。
「……不思議ね」
ぽつりと言う。
バルドが眉をひそめる。
「何がだ」
「ザーラの時は、こんな場所がなかった」
セレナは、静かに言う。
「みんな、正しいことを言った」
「危ないからやめろ」
「世界のために必要だ」
「戻れなくなるぞ」
「でも」
淡い灰色の目が、白樺亭の中を見渡す。
「帰ってこいって、怒ってくれる場所はなかった」
胸の奥が、じんとする。
知らない話なのに、どこか知っているような気がした。
「あなたは、似てる」
セレナは、ルティを見る。
「だから怖い」
正直な言葉だった。
「私は、また同じことが起きるのを見るのが怖い」
「……」
ルティは、自分の腕を見る。
黒い痣。
紫の光。
「……ザーラ」
小さく名前を呼ぶ。
「……かえれない?」
セレナは、答えられなかった。
代わりに、リオンが静かに言う。
「まだ、分からない」
ルティが、リオンを見る。
「だが」
リオンの金色の目が、静かにルティを捉える。
「今のまま、深く触れ続ければ、お前も同じ場所へ近づく」
「……」
その言葉は、優しくなかった。
でも、嘘でもなかった。
バルドが顔をしかめる。
「だから何だ」
リオンを見る。
「その言い方だと、助けるなって聞こえるぞ」
「無制限に手を伸ばせば、戻れなくなる」
リオンは静かに返す。
「それを言っている」
「じゃあ目の前で消えそうな奴を見捨てろってか」
バルドの声が低くなる。
セレナが、間に入るように口を開く。
「違う」
「……」
「見捨てろって言いに来たんじゃない」
彼女は、ルティを見る。
「守り方を変えなきゃいけないの」
「……まもりかた」
ルティが繰り返す。
「そう」
セレナは、今度は少しだけ膝を折り、ルティの目線に近づいた。
「あなた一人が手を伸ばすんじゃない」
「あなた一人が、全部抱え込むんじゃない」
「……」
「戻すなら、みんなで引く」
「閉じるなら、みんなで支える」
「帰る場所は、ただ待つだけじゃなくて、あなたを引き戻すためにある」
ルティは、じっと見ている。
言葉は難しい。
でも、何となく分かった。
ひとりで行かなくていい。
そう言われている気がした。
「……でも」
小さく言う。
「……わたし、みえる」
「そうね」
「……わたし、さわれる」
「そう」
「……だから」
その先が、うまく出てこない。
自分がやらなきゃ。
そう思っていた。
だって、みんなには見えない。
触れない。
怖い場所へ行けない。
だから、自分が行くしかない。
セレナは、その気持ちを見抜いたように、静かに言った。
「あなたしか触れない場所はある」
「でも」
「あなたしか帰れないわけじゃない」
ルティの目が、少しだけ開く。
「帰る時は、一人じゃなくていい」
その言葉に。
ルティの胸が、熱くなった。
白樺亭の音が聞こえる。
誰かが皿を動かす音。
バルドが低く息を吐く音。
ミーシャが泣きそうに鼻をすする音。
リックが落ち着かなく足を動かす音。
オットーが静かに座り直す音。
全部、ここにある。
「……」
ルティは、小さく息を吸う。
「……ひとり、じゃない」
「そう」
セレナが、やわらかく笑った。
「それを忘れないで」
その笑みは、疲れていた。
悲しみも混じっていた。
でも、嘘ではなかった。
ルティは、少しだけ頷く。
「……うん」
その時。
セレナの視線が、ルティの腕へ戻る。
紫の光は、もう消えている。
黒い痣だけが残っている。
「……痣は、すぐには消えない」
セレナが言う。
「でも、今はまだ戻せる」
バルドが反応する。
「本当か」
「ええ」
セレナは頷く。
「ただし、これ以上、一人で深く潜らせないこと」
「……」
「眠らせること」
「食べさせること」
「名前を呼ぶこと」
「怖い時に、一人にしないこと」
バルドは、短く息を吐いた。
「……得意分野だな」
「嘘つけ」
リックがぼそっと言う。
「お前、飯食わせる以外は不器用だろ」
「うるせえ」
少しだけ空気が緩む。
ミーシャが、涙を拭きながら笑った。
「名前なら、何回でも呼ぶわ」
「ご飯も作る」
シェリーが言う。
「私も見てる」
オットーが、低く言った。
「……戻る道なら、少し分かる」
その言葉に、全員がオットーを見る。
オットーは、少しだけ視線を落とす。
「暗かった」
「でも、声があれば分かる」
「……」
「ルティの声は、聞こえた」
ルティが、オットーを見る。
オットーは、静かに頷いた。
「だから今度は、俺が呼ぶ」
短い言葉だった。
でも、重かった。
「……」
ルティの目が、少しだけ潤む。
「……うん」
小さく答える。
セレナは、そのやり取りを見ていた。
まるで、信じられないものを見るように。
その言葉は、深く沈んだ。
ルティは、セレナを見る。
セレナは、笑っていた。
でも、泣いているみたいにも見えた。
「だから」
小さく続ける。
「今度は、違うかもしれない」
リオンが、静かにセレナを見る。
その横顔には、いつもの余裕はなかった。
けれど、そこには確かに、希望を恐れるような表情があった。
「……セレナ」
リオンが低く呼ぶ。
「期待しすぎるな」
「分かってる」
セレナは答える。
「でも、期待くらいさせてよ」
彼女は、ルティを見た。
「この子がここにいたいって言えたなら」
「……」
「今度こそ、誰かが帰れるかもしれない」
ルティは、その言葉の意味を全部は分からなかった。
でも。
セレナが、ザーラのことをまだ諦めきれていないことだけは分かった。
「……ザーラ」
小さく名前を呼ぶ。
セレナの目が揺れる。
「……うん」
ルティは、少し考えた。
それから。
「……また、あう」
「……」
「……わたし」
「……ちゃんと、かえる」
セレナは、何も言えなかった。
その代わり、ゆっくりルティの前に膝をつく。
そして、黒い痣のある腕に触れないように気をつけながら、ルティの手の近くへ自分の手を置いた。
「約束して」
静かな声。
「一人で行かないって」
ルティは、少しだけ迷う。
そして、白樺亭を見る。
バルド。
ミーシャ。
リック。
オットー。
シェリー。
ガイル。
リオン。
セレナ。
みんな、こちらを見ている。
怖い顔。
泣きそうな顔。
怒った顔。
でも、全部。
自分が消えないように、こちらへ繋ぎ止めようとしている顔だった。
「……」
ルティは、小さくうなずいた。
「……ひとり、いかない」
その瞬間。
包帯の下の痣が、少しだけ熱を失った。
黒は消えない。
紫も消えない。
でも。
深いところで、何かが静かに落ち着いた。
セレナは、それを見て、ようやく息を吐いた。
「……よかった」
本当に小さな声だった。
白樺亭の外では、風が吹いていた。
窓の向こうに、まだ黒い気配は残っている。
向こう側は、もうルティを見つけている。
それでも。
ここには、ルティを呼ぶ声がある。
帰ってこいと言う場所がある。
そしてセレナは、その光景を見ながら、初めてほんの少しだけ思った。
ザーラが守ろうとしたものは、まだ完全には失われていないのかもしれない、と。




