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境界に眠る光 ━はじまりの外の世界へ━  作者: くいたん


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第45話 ここにいたい


白樺亭の二階には、まだ朝の光が残っていた。


雨上がりの町から差し込む薄い光が、窓辺の床をぼんやりと照らしている。


いつもなら、その光はあたたかく見えた。


けれど今は、ひびの入った窓の端に黒い霜のようなものが薄く残っていて、そこだけがまるで別の夜を閉じ込めているみたいだった。


「……」


ルティは、布団の中で小さく息をしていた。


まだ身体は重い。


腕は熱い。


黒い痣は、包帯の下でじんじんと疼いている。


でも、それよりも。


胸の奥が、苦しかった。


「……みつけた」


さっき、自分の口からこぼれた声を思い出す。


あれは、自分の声ではなかった。


低くて、冷たくて、遠くて。


水の底から伸びてくるみたいな声だった。


「……」


見つかった。


そう思った。


向こう側の何かが、自分を見た。


自分だけじゃない。


この場所まで。


白樺亭まで。


「……」


布団を握る指に、少しだけ力が入る。


ここは、あたたかい場所だった。


パンの匂いがして、皿の音がして、バルドの怒る声がして、ミーシャが甘いものをくれて、リックが笑って、オットーが黙って座っている場所。


自分が帰ってきた場所。


でも。


そこへ、あれが来るのなら。


自分がここにいるせいで、みんなが怖い思いをするのなら。


「……」


喉の奥が、きゅっと詰まる。


言葉が出ない。


ここにいたい。


そう思っている。


でも、言えない。


言ったら、わがままになる気がした。


自分がいることで、また誰かが消えるかもしれない。


また誰かが、忘れられるかもしれない。


それでも、ここにいたいなんて。


言っていいのか分からなかった。


「……ルティ」


バルドの声がした。


低くて、いつもみたいにぶっきらぼうで。


でも、今日は少しだけ違っていた。


怒っているみたいなのに、怖がっているみたいでもあった。


ルティは、ゆっくり視線を動かす。


ベッドの横に、バルドがいる。


大きな手が、布団の上からルティの手を握っている。


その手は硬くて、あたたかかった。


「……」


ルティは、その手を見た。


離したくないと思った。


でも、その気持ちを口にしたら、もっと苦しくなりそうだった。


「……わたし」


かすれた声が出る。


「……ここにいると」


そこまで言って、止まる。


言いたくない。


でも、言わなければいけない気がした。


「……へんなの、くる?」


部屋の空気が、少しだけ止まった。


ミーシャが、口元を押さえる。


シェリーは、ルティの肩を支えたまま、泣きそうな顔をしている。


ガイルは、窓に残った黒い霜を見ていた。


しばらくして、静かに答えた。


「……来る可能性は高い」


その言葉は、嘘ではなかった。


だからこそ、痛かった。


ルティは、目を伏せる。


やっぱり。


そう思った。


「……」


なら。


ここにいない方がいい。


そう言えばいい。


自分から出ていくと言えば、みんなは困らない。


でも。


そう考えただけで、胸の奥がひどく痛んだ。


白樺亭の匂いが、遠くなる気がした。


バルドの手の温度が、消えてしまう気がした。


「……じゃあ」


声が震える。


「……わたし」


言いたくない。


でも、言わなきゃ。


「……いないほうが、いい?」


その瞬間。


バルドの手に、ぎゅっと力が入った。


「馬鹿言うな」


即答だった。


ルティは、目を瞬かせる。


「……でも」


「でもじゃねえ」


バルドは、まっすぐルティを見る。


その顔は怒っていた。


けれど、ルティを怒っている顔ではなかった。


何かから、ルティを引き戻そうとしている顔だった。


「お前がいるから来るんじゃねえ」


「……」


「来るやつが悪いんだ」


乱暴な言い方だった。


けれど、その言葉はまっすぐだった。


ルティの中で、固まっていたものに、少しだけひびが入る。


「……でも」


まだ言葉が出る。


「……みんな、こわい」


「怖いに決まってんだろ」


バルドは言った。


「俺だって怖えよ」


その言葉に、ルティが少しだけ目を見開く。


バルドが怖いと言うとは思わなかった。


いつも怒っていて、強そうで、大きくて、何でも平気そうなのに。


「怖えけどな」


バルドは続ける。


「お前がいなくなる方が、もっと怖えんだよ」


「……」


部屋が静かになる。


ミーシャが、涙をこらえきれずに俯いた。


シェリーも、唇を噛んでいる。


ルティは、何も言えなかった。


胸の奥が、熱くなる。


でもそれは、痣の熱とは違った。


「……ここにいたいって、言っただろ」


バルドの声が少しだけ掠れる。


「なら、いろ」


「……」


「勝手に遠慮すんな」


「……」


「お前がいなくなったら、誰が皿運ぶんだ」


「……」


「誰がパン焦がすんだ」


「……」


「誰が、あの変な顔で“へん”って言うんだよ」


ミーシャが泣きながら笑った。


「ほんと、それは困るわね」


シェリーも、目元を拭いながら小さくうなずく。


ルティは、少しだけ唇を震わせる。


「……へん、いう」


「言え」


バルドはすぐに答えた。


「何回でも言え」


「……」


「そのたびに、俺らが聞く」


ルティの目に、涙がにじむ。


怖い。


まだ怖い。


向こう側に見つかったことも。


また誰かが消えるかもしれないことも。


自分の腕の痣が広がっていくことも。


全部、怖い。


でも。


それでも。


ここにいたい。


「……」


ルティは、バルドの手を見た。


大きくて、硬くて、あたたかい手。


それを、弱い力で握り返す。


「……わたし」


声が、小さく震える。


「……ここ」


一度、言葉が途切れる。


でも、今度は飲み込まなかった。


「……ここに」


「……いたい」


やっと言えた。


本当に小さな声だった。


けれど、部屋の中にいた全員に届いた。


ミーシャが、静かに泣いた。


シェリーが、ルティの背をそっと支える。


バルドは、目を伏せて、長く息を吐いた。


「……なら、いろ」


低い声。


「ここにいろ」


「……」


「追い出さねえ」


「……」


「連れて行かせねえ」


その言葉が、ルティの胸の奥へ落ちた。


怖さは消えない。


でも、ひとりではなくなった気がした。


その時だった。


階下から、がたん、と音がした。


何かが倒れる音。


続けて、リックの声が響く。


「バルド!」


「下、来てくれ!!」


バルドが顔を上げる。


ガイルもすぐに動いた。


ミーシャが、ルティの手を握ったまま言う。


「ルティちゃんは、ここに」


「私たちがいるから」


バルドは、一瞬だけルティを見る。


離れたくない。


その気持ちが、顔に出ていた。


それでも、階下の異変を放っておくことはできない。


「……すぐ戻る」


短く言って、部屋を出る。


ガイルも続く。


一階へ降りると、白樺亭の空気はもう変わっていた。


窓辺。


壁の隅。


床の継ぎ目。


椅子の脚。


そこに、黒い霜のようなものが細く広がっている。


まるで、見えない指が店の中を探るように這っていった跡だった。


「……なんだよ、これ」


リックの声は震えていた。


「さっきまでなかったぞ」


オットーは、窓際に立っている。


顔色はまだ悪い。


それでも、目だけははっきりしていた。


「……音がした」


低く言う。


「窓の向こうから」


「何の音だ」


バルドが聞く。


オットーは、少しだけ黙った。


そして。


「……ノックだ」


店の空気が凍った。


リックが、引きつった顔で窓を見る。


「外からか?」


「……違う」


オットーは首を振る。


「窓の奥から」


誰も笑わなかった。


もう、冗談だと思える者はいなかった。


ガイルが、窓へ近づく。


黒い霜へ触れようとして、寸前で手を止める。


「触るな」


低く言った。


「全員、下がれ」


「また開くのか」


バルドが問う。


「まだ開いてはいない」


ガイルは、霜の奥を見つめる。


「だが、探っている」


「……」


「ルティの場所を」


二階。


その言葉は聞こえていない。


けれど、ルティは小さく身を震わせた。


窓を見る。


黒い霜は、もうそこにはない。


でも、見える。


窓の外ではなく、景色の向こう側。


薄く重なった暗い場所から、何かがこちらを見ている。


「……」


怖い。


また、見られている。


でも。


さっき言えた。


ここにいたいと。


ここにいると。


「……」


ルティは、毛布を握る。


ミーシャの手が隣にある。


シェリーの息遣いが近い。


階下からは、バルドの声が聞こえる。


リックの声も、オットーの気配もある。


白樺亭の匂いがする。


「……」


ルティは、ゆっくり息を吸う。


そして、小さく言った。


「……こないで」


声は弱い。


でも、はっきりしていた。


「……ここ」


「……だめ」


その瞬間。


左腕の痣の奥で、淡い紫の光が一度だけ脈打った。


どくん。


小さく。


でも、確かに。


階下。


黒い霜が、一瞬だけ震えた。


ガイルの目が鋭くなる。


「……今のは」


霜が、広がるのをやめる。


それどころか、少しだけ薄くなっていく。


まるで、見えない力に押し返されたみたいに。


「……ルティか」


バルドが階段の方を見る。


心配と怒りと、どうしようもない安堵が混ざった顔だった。


「寝てろって言っただろうが……」


低く呟く。


けれど、その声は少し震えていた。


ガイルは、黒い霜を見つめたまま言う。


「……閉じたわけじゃない」


「じゃあ何だ」


「拒んだんだ」


「拒んだ?」


「向こう側へ、ここへ入るなと伝えた」


バルドの顔が強張る。


「それで止まるのか」


「今回はな」


ガイルは静かに答える。


「だが、相手はもう場所を知っている」


白樺亭。


この店。


ルティの帰る場所。


そこが、見つかった。


「……守る」


低い声がした。


バルドだった。


「店ごと守る」


リックが顔を上げる。


「……無茶言うなよ」


苦笑しようとして、失敗する。


「相手、何なんだよ」


「知らねえ」


バルドは即答した。


「だが、ここは俺の店だ」


「……」


「勝手に入ってきて、うちのガキを怖がらせるやつを、客扱いする気はねえ」


リックが、小さく息を吐いた。


それから、震える声で笑った。


「……だな」


「俺も、まだツケ払ってねえしな」


「それは今すぐ払え」


「この流れで言うか?」


少しだけ、空気が緩む。


本当に、ほんの少しだけ。


オットーは、静かに窓際の席へ座った。


いつもの席。


自分が帰ってきた場所。


「……俺もいる」


短い言葉だった。


けれど、その重さを誰も笑わなかった。


二階。


ルティは、遠くからその気配を感じていた。


声の内容までは分からない。


でも。


みんながいる。


それだけは分かる。


「……」


ルティは、ゆっくり目を閉じる。


怖い。


まだ怖い。


けれど、怖いままでも、ここにいたい。


「……ここに」


小さく呟く。


「……いたい」


ミーシャが、その手をそっと握る。


「うん」


やさしい声だった。


「いていいの」


その言葉を聞いて。


ルティの眉が、少しだけ緩んだ。


窓の向こうでは、まだ何かが見ている。


けれど。


白樺亭の中には、あたたかい灯りがあった。


誰かが動く音があった。


帰ってこいと言った声があった。


そしてルティは、初めて、怖いままでも自分の居場所を選んでいた。

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