第44話 向こう側の音
翌朝。
白樺亭には、久しぶりにパンの匂いが戻っていた。
まだ空気は静かだったけれど。
それでも、昨日までとは違う。
誰かが動き。
皿の音がして。
窓が開き。
人の息遣いが戻っている。
階下では、ミーシャの声に混じって、もうひとつ明るい声が聞こえていた。
シェリーだ。
町の仕立て屋で働いている彼女は、白樺亭が忙しい時、ときどき手伝いへ来ることがある。
今回は、ルティの看病も兼ねて泊まり込んでいた。
「……」
ルティは、二階の窓辺に座っていた。
毛布を膝にかけたまま、ぼんやり外を見ている。
雨は止んでいた。
濡れた石畳が、朝の光を鈍く反射している。
「……」
身体はまだ重かった。
左腕も熱い。
痣は消えていない。
むしろ。
前より、はっきりしていた。
皮膚の下。
黒い色が、ゆっくり血管をなぞっている。
「……」
指先で、そっと触れる。
少しだけ熱を持っていた。
「……いたい?」
後ろから声がした。
振り向く。
シェリーが立っている。
白樺亭から借りたエプロン姿のまま、湯気の立つ器を持っていた。
心配そうな顔で、ルティを見ている。
「……ちょっと」
ルティが小さく答える。
「……」
シェリーは少しだけ眉を下げた。
それから、無理に明るい声を作る。
「今日はちゃんと食べないとだめだからね」
「ミーシャさん、すごく怒ってたんだから」
「……」
ルティは、こくんとうなずく。
シェリーが近づき、器を机へ置いた。
甘い匂い。
温かいスープだった。
「今日はシェリーがちゃんと見てるから安心しなさい、って言われたの」
少し困ったみたいに笑う。
「だから逃げちゃだめよ?」
「……にげない」
「ほんと?」
「……たぶん」
「たぶんなんだ」
シェリーが小さく吹き出す。
その笑い方が優しくて、ルティも少しだけ肩の力を抜いた。
「……ありがと」
「どういたしまして」
シェリーが笑う。
けれど。
その目は、笑っていなかった。
「……」
ルティは、なんとなく分かる。
みんな、怖がっている。
自分のことを。
「……」
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
――その時だった。
ぎぃ。
「……?」
ルティが顔を上げる。
今。
何か聞こえた。
古い扉が開くみたいな音。
「……」
シェリーも首を傾げる。
「どうしたの?」
「……おと」
「え?」
「……ひらく、おと」
「……?」
シェリーは何も聞こえなかった。
でも。
ルティには、はっきり聞こえていた。
遠く。
とても遠い場所で。
何かが、開く音。
「……」
ぞわり、と背筋が冷える。
同時に。
左腕の痣が、じわりと熱を持った。
「っ……」
ルティの肩が震える。
「ルティ?」
シェリーが慌てて顔を覗き込む。
「顔色……」
「……だいじょうぶ」
そう言った瞬間だった。
――ざぁぁぁ……
突然。
耳鳴りみたいな音が、頭の奥へ流れ込んできた。
「……っ」
視界が揺れる。
部屋が、少し歪む。
「ルティ!?」
シェリーが支える。
でも。
ルティは別のものを見ていた。
「……」
暗い。
深い。
冷たい。
水の底みたいな場所。
その奥で。
何かが動いた。
「……」
人影。
違う。
人じゃない。
もっと細長く。
輪郭が曖昧で。
黒い。
「――」
“それ”が。
ゆっくり、こちらを向く。
「っ!!」
ルティの息が止まる。
見られた。
そう思った瞬間。
左腕の痣が、淡い紫を帯びて脈打った。
どくん、と。
心臓みたいに。
「……っ、あ……!!」
ルティが、腕を押さえる。
熱い。
今までとは違う。
焼けるみたいだった。
「誰か!!」
シェリーの叫びが、部屋へ響く。
足音が駆け上がってくる。
乱暴に扉が開く。
「ルティ!!」
最初に飛び込んできたのは、バルドだった。
「……っ」
その瞬間。
ルティの視界が、ぶつりと切れる。
静寂。
そして。
最後に。
耳元で、誰かの声がした。
低く。
掠れた声。
まるで、水の底から響くみたいな声。
『……みつけた』
「――!!」
ルティが、びくりと震える。
次の瞬間。
窓ガラスが、突然ひび割れた。
ばきっ――!!
「!?」
全員が息を飲む。
誰も触っていない。
なのに。
窓へ、黒い霜みたいなものが一瞬だけ広がっていた。
「……」
部屋が、静まり返る。
その中で。
ガイルだけが、険しい顔をしていた。
「……始まったな」
低い声。
誰にも聞こえないくらい小さく。
けれど。
その一言だけで。
空気が、さらに冷たくなった。




