第13話 少しだけ、違う
昼下がり。
窓から差し込む光は、いつもと同じはずなのに、どこかやわらかく、空気ごと薄く溶けているみたいに、部屋の中を静かに満たしていた。
「……」
ルティは、すり鉢の前にちょこんと座っている。
小さな手の中には、いつものスプーン。
その上から、少し不釣り合いなくらいの大きさのすりこぎを、両手でぎゅっと抱えるように持っていた。
「……いい?」
ザーラが、念のために確認する。
声は落ち着いているけれど、その視線はしっかりとルティの手元を見ている。
「……!」
こくん、と力いっぱい頷く。
その仕草は、前よりもずっと迷いがない。
乾いた葉が、すり鉢の中に落ちる。
かさり、と軽い音。
「……」
ごり。
ごり。
ゆっくりと、円を描くように動かす。
「……」
以前よりも、ほんの少しだけ力の入れ方が整っている。
無駄に強すぎず、弱すぎず。
自分の手の動きと、すり鉢の中の感触が、少しずつ繋がってきている。
「……」
ザーラは、何も言わない。
ただ、静かに見ている。
口を出さず、止めもせず、ただ見守るだけ。
そのとき。
ふわ、と。
ほんの一瞬だけ——
砕けていく葉の粉が、光を含んだみたいに、やわらかく揺らいだ。
「……」
ほんの、まばたきひとつ分にも満たない時間。
でも確かに、ただの粉の動きとは違う“なにか”が混ざった気がした。
「……」
ザーラの目が、わずかに細くなる。
見間違いかどうかを測るように、もう一度、同じ場所を見る。
「……」
けれど、次の瞬間には、もう何もない。
ただの粉。
ただのすり鉢。
ただの作業。
「……」
何も言わない。
言葉にしないまま、その違和感だけを、胸の奥に静かに沈める。
「……できた」
ルティが、小さく口にする。
まだたどたどしいけれど、それでも確かに“言葉”になっている。
「……えらい」
ザーラが、短く返す。
それだけで十分だと知っている声。
すり鉢を傾ける。
さらさらと、細かくなった粉が瓶へと流れ落ちていく。
「……」
その様子を、ザーラはじっと見つめていた。
流れ方。
質感。
香り。
——ほんの、わずかに。
いつもと“違う”気がする。
けれど、それを断言するほどの差ではない。
「……」
何も言わない。
ただ、覚えておく。
その日の夕方。
ミーナが、いつものように遠慮のない調子で顔を出す。
「ちょっともらっていい?」
「いつもの?」
「うん、旦那のやつ。昨日ちょっと無理させちゃってさ」
「……そこにある」
棚を指で示す。
ミーナは慣れた手つきで瓶を取る。
「ありがとー。あとで野菜持ってくるから」
軽く手を振って、そのまま帰っていく。
それも、いつものやり取り。
翌日。
「ザーラ!」
勢いよく扉が開く。
「ちょっとこれ!」
「……なに」
ミーナが、やけに息を弾ませている。
頬も少し上気している。
「昨日の薬!」
「……効かなかった?」
「逆!」
「……?」
「効きすぎ!」
「……は?」
「いつもより、明らかに早かったのよ、熱が下がるの!」
両手をぶんぶん振りながら、言葉を重ねる。
「しかもね、ぐっすり寝てさ。途中で一回も起きなくて、朝にはケロッとしてるの」
「……」
ザーラは、何も言わずに瓶へと視線を落とす。
中身は、いつもと同じはずの粉。
「こんなこと、今まであったっけ?」
「……」
ほんのわずかな間。
「……気のせいでしょ」
淡々と返す。
「えー?」
「たまたまよ。体調の波とか、タイミングとかあるでしょ」
「ほんとぉ?」
「……」
それ以上は、何も言わない。
けれど。
ザーラの中では、さっきの“揺らぎ”が、静かに繋がっていた。
ほんの一瞬の光。
ほんのわずかな違和感。
そして——この結果。
「……」
否定はする。
でも、完全には切り捨てない。
そんな沈黙。
そのやり取りを。
ルティは、少し離れた場所で、じっと聞いていた。
「……」
手の中のスプーンを、ぎゅっと握る。
「……」
昨日。
自分が、やった。
自分の手で、すり潰した。
「……」
胸の奥に、じんわりと広がるあたたかさ。
でも、それと同時に。
「……?」
言葉にできない、小さなひっかかり。
「……」
なにかが、少しだけ違った気がする。
でも、それが何なのかは、わからない。
その日の午後。
「……」
ルティは、一人で外に出ていた。
家のすぐそば。
何度も歩いた、見慣れた場所。
「……」
木々の間を風が抜ける。
ざわり、と葉が揺れる。
「……」
スプーンを握る。
いつもより、ほんの少しだけ強く。
ふと。
顔を上げる。
「……」
なにか。
「……」
呼ばれた気がした。
ただの風の音かもしれない。
葉のこすれる音かもしれない。
それでも。
「……」
耳の奥に、残る。
もう一度、静かに息をひそめる。
かすかに。
ほんの、かすかに。
“音”が、重なる。
——しゃら。
それは、風とも違う。
葉音とも違う。
どこか、透き通っていて。
どこか、近くで鳴っているのに、遠くから響いてくるような。
「……?」
ルティは、小さく首をかしげる。
音の方へ、一歩。
また一歩。
ぺた、ぺた。
森の奥へ。
いつもより、ほんの少しだけ深く。
「……」
光が、揺れている。
木漏れ日——のはずなのに。
「……」
違う。
明らかに、違う。
やわらかく、淡く。
一定じゃないリズムで、ゆっくりと明滅している。
まるで——
息をしているみたいに。
「……」
ルティは、その場に立ち止まる。
見つめる。
怖さは、不思議とない。
それどころか。
「……」
胸の奥が、すっと静かになる。
落ち着く。
引き寄せられるような感覚。
手の中のスプーンが、じんわりとあたたかい。
「……?」
視線を落とす。
見た目は、何も変わらない。
でも。
「……」
確かに、そこに“ぬくもり”がある。
昨日、感じたものと、どこか似ている。
でも、もう少しだけ——はっきりしている。
そのとき。
「ルティ!」
後ろから、声。
「……!」
びくっと肩が跳ねる。
振り返る。
ザーラが、少し息を切らしながら立っている。
「……こんなところまで来て」
すぐに近づいてくる。
「勝手に行くなって言ったでしょ」
いつもより、少し強い声。
「……」
ルティは、黙る。
でも。
もう一度、あの光の方を見る。
「……?」
ザーラも、つられて視線を向ける。
そこには——
何もない。
ただの森。
ただの光。
「……帰るわよ」
手が差し出される。
「……」
少しだけ迷ってから。
その手を、取る。
帰り道。
「……」
ルティは、何度も振り返る。
でも。
もう、あの揺らぎは見えない。
あの音も、聞こえない。
家に戻る。
いつもの場所。
いつもの空気。
「……」
それでも。
胸の奥には、確かに残っている。
あの光。
あの音。
あの、やわらかいあたたかさ。
「……」
スプーンを、ぎゅっと握る。
それはまだ、
誰にも説明できない。
言葉にも、形にもならない。
でも確かに——
ほんの少しだけ、世界が“違って”見えた。
そのあと。
「……」
家に戻ってきても。
ルティは、しばらくのあいだ——
手の中のスプーンを、じっと見つめていた。
「……」
さっきと同じ。
でも、少しだけ違う気がする。
あたたかい。
やさしい。
「……」
そっと。
頬に当ててみる。
ひんやりしているはずなのに——
「……」
なぜか、ほっとする。
「……」
ぎゅっ。
胸の前で、抱える。
「……なにしてるの」
ザーラの声。
「……!」
びくっ。
でも、逃げない。
「……」
ルティは、そのままスプーンを持ち上げて——
ザーラに見せる。
「……?」
「……あったか」
たどたどしく。
でも、ちゃんと伝えようとする。
「……」
ザーラが、一瞬だけ目を細める。
「……そう」
短く答える。
それ以上は言わない。
「……かわいい……」
ミーナが、横でぼそっとつぶやく。
「なにその報告……“あったか”って……」
「うるさい」
「いやだってさぁ……」
くすくす笑う。
「……」
ルティは、気にせず。
もう一度、スプーンを見る。
それから——
「……」
そっと。
テーブルの上のコップに、ちょん、と当ててみる。
からん。
小さな音。
「……!」
目が、ぱっと明るくなる。
もう一回。
からん。
「……」
楽しい。
「……やめなさい」
「……!」
ぴたり。
でも。
「……」
ちょっとだけ。
もう一回だけ。
こつん。
「……」
満足。
こくん。
ザーラは、小さく息をつく。
「……ほんとに気に入ったのね」
ぽつりと。
ルティは、にこっと笑う。
その手の中で。
小さなスプーンは——
まだ、ほんのりあたたかかった。




